
久保竜彦
ジーコから期待された好素材も腰痛により落選
FW久保竜彦は破壊力のある左足と日本人離れしたフィジカルが持ち味だった。2006年ドイツW杯に臨むジーコ監督から大きな期待を寄せられたが、本大会出場を逃し、代わりに守備意識の高い巻誠一郎がサプライズ選出された。
1998年にフィリップ・トルシエ監督の下で代表デビュー後、2002年日韓大会直前の欧州遠征では、FW高原直泰とFW西澤明訓の離脱に伴いメンバーに選ばれたが、アピール不足で落選。引退後、トルシエ監督が嫌いで、仮病で代表合宿を断っていたことを明かした。
2003年、ジーコ監督の下で代表復帰し、2004年2月の2006W杯アジア予選オマーン戦で決勝ゴールを決めるなど活躍。しかし、同年の無断外出事件を経て復帰した後も、慢性的な腰痛と足首痛に苦しめられ続けた。
2006年大会直前、ジーコ監督が「久保と言うストライカーに注目して欲しい」と発信するほど期待され、ジーコ体制下では18試合11得点と結果を残したが、持病が改善せず落選し、これを最後に代表に選ばれることはなかった。
森岡隆三
2002年日韓大会で主将として出場も初戦負傷交代の無念
DF森岡隆三は、正確に言えばW杯のピッチに立っている。しかも2002年の自国開催のW杯日韓大会で日本代表の主将としてだ。しかしながら、出場時間はわずか「73分」。グループリーグ初戦のベルギー戦(2002年6月4日/埼玉スタジアム)で負傷交代という形で、事実上、大会から去った。
ベルギー戦は、後半12分にFWヴィルモッツに先制を許したが、その直後にFW鈴木隆行が同点ゴール、さらにFW稲本潤一が逆転ゴールを決め、日本が2-1とリードした。しかし森岡は相手との接触プレーで左足を負傷し、後半28分(73分)にDF宮本恒靖と交代。その直後の後半30分にベルギーに同点ゴールを許し、最終的に2-2の引き分けとなった。
森岡に代わってキャプテンマークを継いだ宮本も大会直前に鼻骨骨折し、黒いフェイスガードを着けて出場したが、その姿から「バットマン」としてブレークを果たし、ジーコジャパンでも主将を務め、欧州移籍(レッドブル・ザルツブルク/2007-2009)も経験。現在は日本サッカー協会(JFA)の会長にまで出世した。
片や森岡は、京都サンガU-18(2015-2016)、ガイナーレ鳥取(2017-2018)監督を経て、現在は解説業と並行して、JFL・クリアソン新宿のアドバイザーを務めているが、あの負傷がなければ、ここまでキャリアに差がついただろうか。運命のいたずらを感じてしまう。
引退後、森岡はこの試合を振り返り、舞台裏を語っている。主将として大会に臨み、チームは史上初めて決勝トーナメントに進出したが、本人は負傷によりフルに貢献できなかったことを惜しんでいる。
中島翔哉
森保体制初期「三銃士」として活躍もフェードアウトするように消えた“元・天才”
現在、浦和レッズで活躍しているMF中島翔哉。年代別代表にも選出され続け、創造性豊かな攻撃的MFとして、海外クラブでも活躍した。森保監督体制初期には背番号10を背負い、MF南野拓実、MF堂安律と「三銃士」と称されたが、W杯出場は未だ叶っていない。現役選手であるため、断定はできないが、今年で32歳になる中島に、代表復帰のチャンスは限りなく低いと言わざるを得ないだろう。
ベスト8に進出した2011年のU-17W杯で活躍。2017/18シーズン、ポルトガルのポルティモネンセでのブレーク後、2018年3月、マリとの親善試合でA代表デビューを果たし、初出場初得点を記録。W杯ロシア大会直前のハリルホジッチ監督解任と西野朗監督就任も影響し、最終メンバーから落選した。2022年W杯カタール大会を目指す森保ジャパンでは背番号10を託されたものの、目まぐるしいほど移籍を繰り返し、度重なる負傷もあり、徐々に出場機会を減らし、足首の脛骨骨折と靭帯断裂により、完全に代表から遠ざかった。
現在、浦和でも背番号10を着け、往年のテクニックが衰えていないところを見せてはいるが、不動のレギュラーにまでは至っていない。代表通算19試合5得点4アシストという数字を残しているが、どうしても”元・天才”というイメージが拭えない。
これらの選手たちは、能力と実績で日本サッカーを牽引しながらも、タイミング、負傷、監督の方針、コンディションなどの要因でW杯本大会の舞台に立てなかった例だ。しかしながら、彼らの貢献は、現在の日本代表の基盤を築く上で欠かせないものでもある。サッカー史は「if」の連続であり、これらの例は選手選考の難しさを物語っている。
コメントランキング