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大失敗に終わった歴代一流サッカー選手の移籍5選。あの名将も“犠牲”に

ゲーリー・リネカー(左)アンドリー・シェフチェンコ(中)ガイスカ・メンディエタ(右)写真:Getty Images

2024/25シーズンの欧州リーグも大詰めとなり、プレミアリーグのリバプールやスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックなどが優勝を決め、欧州カップ戦出場権争いや残留争いにも視線が注がれている。一方で、早くも来2025/26シーズンへ向けた人事も動きが活発化してきており、大物選手の移籍の噂も話題となる季節となった。

昨シーズンの移籍の目玉の1つは、フランス代表FWキリアン・エムバペのパリ・サンジェルマン(PSG)からレアル・マドリードへの移籍だろう。エムバペはマドリードでその期待に応える活躍を見せているものの、肝心のチームは無冠が現実味を帯びている。名選手を獲得したところで、必ずしもチームの好結果を保証するものではない現実を証明する形となってしまった。

ここではこれまでのサッカー史で大型移籍と呼ばれ、話題をさらったものの失敗に終わった世界的名選手を挙げ、その原因を考察したい。


ディエゴ・マラドーナ 写真:Getty Images

ディエゴ・マラドーナのセビージャ移籍(1992-1993)

“神”と崇められたアルゼンチンのレジェンドMFディエゴ・マラドーナ(2020年死去)は、1984年にバルセロナからセリエAのナポリ(1984-1991)に移籍すると、1986-87シーズンにクラブ史上初のセリエA優勝、さらにコッパ・イタリアとの2冠を達成した。しかし1991年、度重なる問題行動や薬物疑惑により、イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受け、クラブからも追われてしまう。

そこに目を付けたのは、1993年のJリーグ創設に向け、大物外国人選手の補強を狙っていた名古屋グランパスだった。年俸・契約金合わせ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していたが、コカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。

行き場をなくしたマラドーナだったが、FIFA(国際サッカー連盟)が介入するという異例の展開を見せ、1992年にラ・リーガのセビージャへ移籍。バルセロナ(1982-1984)で実績があったことや、当時の監督がかつてアルゼンチン代表を率い、1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会で優勝に導いたカルロス・ビラルド監督(1992-1993)だったことで、再び活躍が期待された。

しかし、マラドーナのコンディションは全盛期とは比べ物にならないくらいに低下しており、かつての輝きを取り戻すことはなかった。セビージャでの戦術にもフィットせず、リーグ戦出場試合は26試合に止まり5得点に終わる。わずか1シーズンで、母国のニューウェルズ・オールドボーイズに移籍していき、マラドーナの欧州でのキャリアは終わりを告げた。

セビージャへの移籍は、マラドーナのキャリアの晩年を象徴する出来事として語られている。この1シーズンは、彼の偉大なキャリアにおける数少ない“汚点”とも言えるものだった。

さらに、1993年に加入したニューウェルズでも素行不良でわずか4か月で解雇され、所属クラブなしの状態で臨んだ1994年のW杯アメリカ大会では、ドーピング違反でFIFAから15か月間の出場停止処分を受けることになる。

キャリアの最後は1995年、14年ぶりにボカ・ジュニアーズ(1995-1997)へ復帰し、1997年、37歳の誕生日(10月30日)に現役引退を発表した。

その後、2010年のW杯南アフリカ大会ではアルゼンチン代表監督としてチームをベスト8に導いたかと思えば、私生活では薬物依存や不摂生による入院、報道陣への発砲事件などといったお騒がせエピソードを残し、2020年、60歳の若さでこの世を去った。


ゲーリー・リネカー 写真:Getty Images

ゲーリー・リネカーのバルセロナ移籍(1986-1989)

プレミアリーグ創設(1992年)前のイングランドリーグで、レスター・シティ(1978-1985)でもエバートン(1985-1986)でも得点王を獲得し、1986年に期待を一身に背負いバルセロナ移籍を果たした元イングランド代表FWゲーリー・リネカー(1994年引退)。

バルセロナ移籍初年度(1986/87)と2年目(1986/87)はそれぞれ21得点、20得点の結果を出し、期待に応える活躍を見せていたが、運命を暗転させる人物が監督に就任する。バルセロナのレジェンドとして数々のタイトルをもたらしたヨハン・クライフ(1988-1996、2016年死去)が指揮官として、本拠地カンプ・ノウに帰ってきたのだ。

クライフ監督は、流動的でパス中心のサッカーを志向。しかし、リネカーは典型的な点取り屋で、その“仕事場”はゴール前だ。リネカーは監督が求めるポジショニングやビルドアップへの関与に応えられなかった。そんなリネカーにクライフ監督は左ウイングのポジションを与えると、これにリネカーは怒り、さらにケガやコンディションの問題も発生し、出場機会を徐々に減らしていく。

それでも契約最終年の1988/89シーズン、UEFAカップウィナーズカップでは優勝に貢献。このタイトルを置き土産にスペインを去り、トッテナム・ホットスパー(1989-1992)に移籍した。

リネカーは後日、スペインのサッカーと生活に適応する困難さを口にし、特にスペイン語の習得やバルセロナの文化への適応に苦労したと語っている。トッテナム移籍後の1989/90シーズン、いきなりイングランドリーグの得点王に輝き、復活をアピールしたリネカー。そして1992年、彼はJリーグ名古屋グランパスのエースとして、日本の地を踏むことになった。

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名前:寺島武志

趣味:サッカー観戦(Jリーグ、欧州5大リーグ、欧州CL・EL)、映画鑑賞、ドラマ考察、野球観戦(巨人ファン、高校野球、東京六大学野球)、サッカー観戦を伴う旅行、スポーツバー巡り、競馬
好きなチーム:Jリーグでは清水エスパルス、福島ユナイテッドFC、欧州では「銀河系軍団(ロス・ガラクティコス)」と呼ばれた2000-06頃のレアルマドリード、当時37歳のカルロ・アンチェロッティを新監督に迎え、エンリコ・キエーザ、エルナン・クレスポ、リリアン・テュラム、ジャンフランコ・ゾラ、ファビオ・カンナヴァーロ、ジャンルイジ・ブッフォンらを擁した1996-97のパルマ、現在のお気に入りはシャビ・アロンソ率いるバイヤー・レバークーゼン

新卒で、UFO・宇宙人・ネッシー・カッパが1面を飾る某スポーツ新聞社に入社し、約24年在籍。その間、池袋コミュニティ・カレッジ主催の「後藤健生のサッカーライター養成講座」を受講。独立後は、映画・ドラマのレビューサイトなど、数社で執筆。
1993年のクラブ創設時からの清水エスパルスサポーター。1995年2月、サンプドリアvsユベントスを生観戦し、欧州サッカーにもハマる。以降、毎年渡欧し、訪れたスタジアムは50以上。ワールドカップは1998年フランス大会、2002年日韓大会、2018年ロシア大会、2022年カタール大会を現地観戦。2018年、2022年は日本代表のラウンド16敗退を見届け、未だ日本代表がワールドカップで勝った試合をこの目で見たこと無し。
“サッカーは究極のエンタメ”を信条に、清濁併せ吞む気概も持ちつつ、読者の皆様の関心に応える記事をお届けしていきたいと考えております。

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