
サッカー界において、FIFAワールドカップ(W杯)は選手のキャリアを象徴する最大の舞台だ。だがクラブで華々しい実績を残しながらも、本大会に出場できなかった選手は少なくない。ここでは、特に象徴的な外国人選手5人を紹介したい。
これらの選手は、クラブレベルでは輝かしい実績があり、世界トップクラスの才能を発揮したにもかかわらず、代表チームの予選敗退や、キャリアのピークとW杯本大会開催のタイミングのズレ、負傷などが原因でW杯のピッチに立つ機会を逃した。以下の5選手のW杯不出場の理由も併せて解説する。
アルフレド・ディ・ステファノ(アルゼンチン代表・コロンビア代表・スペイン代表)
レアル・マドリードのレジェンドだが…
レアル・マドリードで黄金時代を築き、引退後は監督を務め、初代名誉会長でもあるFWアルフレド・ディ・ステファノのW杯不出場は、国籍変更と政治的な複雑な事情、不運としか言いようがない負傷が重なった結果だ。アルゼンチン出身の同選手は、1940年代にはアルゼンチン代表としてプレーし、1947年の南米選手権(コパ・アメリカ)での優勝に貢献したが、アルゼンチンリーグのストライキによって、1949年、コロンビアリーグのミジョナリオスに移籍。これに伴いコロンビア代表に転籍した。
1950年ブラジル大会では、アルゼンチン代表が予選参加を棄権したため出場機会を逃した。コロンビア代表転籍後の1954年スイス大会では、コロンビアサッカー連盟がFIFAから資格停止処分を受けていた上、コロンビア代表としての出場歴があったためアルゼンチン代表に戻ることも叶わなかった。1958年スウェーデン大会の予選を前に、今度はスペイン代表に転籍したが、欧州予選で敗退。1962年チリ大会では予選突破に貢献したものの、本大会直前に筋肉系の負傷で欠場した。

ジョージ・ベスト(北アイルランド代表)
“5人目のビートルズ”と呼ばれたマンUのアイドル
長きにわたってマンチェスター・ユナイテッド(1963-1974)で活躍したイングランドリーグを代表するウイングだったFWジョージ・ベストの場合は、英国4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)の中で最も国際競争力に劣る北アイルランド代表であったことが不運だった。同代表は1958年W杯スウェーデン大会でW杯に初出場し8強に進出。ベストは1964年から1977年まで同代表で37キャップ9得点を記録したが、この期間中に北アイルランドがW杯予選を突破することは出来なかった。
北アイルランド代表は欧州予選で強豪国の壁に阻まれ続け、彼の全盛期(1960年代後半から1970年代前半)と重なる時期でも予選敗退が続いた。1958年大会以来24年ぶりに本大会出場権を得た1982年スペイン大会時には既にキャリアの晩年を迎え、香港リーグでプレーしており、出場は不可能だった。アイルランド代表との”統一”を願っていたと言われ、イングランド代表への転籍にも消極的で、クラブでの華々しい活躍とは対照的に、代表のチーム力とタイミングによってW杯出場を阻まれた選手として語り継がれている。
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