日本時間11日にイタリア代表とウクライナ代表の国際親善試合が行われる。ウクライナ代表監督のアンドリー・シェフチェンコはミランで輝かしいキャリアを築いたこともあり、イタリアとは縁も深い人物だ。シェフチェンコは親善試合を行うスタジアムに落橋事故のあったジェノバのスタディオ・ルイジ・フェッラーリスを指定している。今回はそんな彼のキャリアを振り返りご紹介する。
プロデビューまで
6歳のときに、ウクライナの盟主ディナモ・キエフのサッカースクールに入団したシェフチェンコ。しかし、10歳のときチェルノブイリ原発事故が起こり、移住を余儀なくされる。それでも1992年にはディナモ・キエフのユースチームへと昇格。2年間ユースチームの選手としてプレーし、1994年にトップチームデビューを果たした。ユース時代にはローマで行われた大会に参加するため、イタリアを訪れている。
ディナモ・キエフ時代
シェフチェンコは最終的にディナモ・キエフで117試合に出場し60ゴールを記録している。5年連続のリーグタイトルも獲得した。シェフチェンコは1997/1998シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)バルセロナ戦でハットトリックを記録しチームを4-0の勝利に導くと、一躍時の人に。翌シーズンのチャンピオンズリーグでもCL得点王に輝き、チームをベスト4へと導いた。そんな彼には多くのビッグクラブが注目を集めたが、獲得したのはミランだった。
ミラン時代
ディナモ・キエフに5シーズン連続のリーグタイトルと2600万ユーロの置き土産をしてミラノへと旅立ったシェフチェンコ。リーグのスタイルになじめるか不安視されていたが、初年度から24ゴールを挙げ得点王に輝いた。2003/2004シーズンにも再び得点王に輝き、チームのスクデット獲得に貢献。この年はウクライナ人として3人目となるバロンドールに輝いている。CLのタイトルも得た彼はFWという一貫性を保つことが難しい役割の中で、ほとんど不振というものを経験せずにミラノから旅立つことになる。
チェルシー時代
2005/2006シーズンが終了すると、シェフチェンコはイングランドへの移籍を発表した。そして4500万ユーロ(約58億5000万円)の移籍金をミランに残し、惜しまれながらチェルシーへと加入した。しかし、チェルシーでは大苦戦。戦術的や慣れないプレミアリーグに苦戦し、本来の実力は鳴りを潜めた。二コラ・アネルカの加入はそんなシェフチェンコにとどめを刺した。出場機会はほとんど0に近い数字になり、ミラン復帰が現実のものとなった。
ミラン復帰と母国帰還
難航に難航を重ねた交渉の末に、シェフチェンコはレンタルでミランに復帰を果たすこととなる。それが2008年8月23日の出来事だ。シェフチェンコは自身のあだ名であるシェバ(Sheva)がヘブライ語で7を意味するため、背番号7にこだわりを持っていたが、すでにチームの中心人物になろうとしていたアレシャンドレ・パトがすでにつけていたため「76」を選択した。ただ、ミランでもかつての姿を見せることはできずにレンタルを終えた。2009年の夏には、古巣ディナモ・キエフに10年ぶりに復帰。2012年に現役を退いた。
ウクライナ代表
シェフチェンコはウクライナの最多得点記録保持者だ。2006年には母国を史上初のワールドカップ本大会に導いている。本大会ではチュニジア戦での決勝点などで、チームのベスト8進出に貢献した。シェフチェンコは母国とポーランドの共同開催となったEURO2012を最後に現役から引退することを発表。スウェーデン戦で2ゴールを記録し、ウクライナのEURO初勝利に貢献している。しかし、フランスとイングランドに敗れ、グループステージで敗退。大会終了後に現役を引退している。
引退後
引退後のシェフチェンコの活動は実にユニークだ。2012年の10月に行われたウクライナ最高議会選挙にウクライナ社会民主党から出馬する。当選とはならなかったが、大きな注目を集めた。その後、プロゴルファーへの道を歩もうとしたが、こちらも失敗に終わっている。最終的にUEFAのプロライセンスを修得し、2016年2月16日に母国ウクライナ代表のコーチに就任。2016年からは代表監督としてチームを率いている。
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