Jリーグ

タイトルを争うガンバ大阪時代の葛藤、大舞台の裏側。寺田紳一インタビュー【前編】

寺田紳一 写真提供:おこしやす京都AC

順調なステップを踏みつつ「とにかく必死な記憶しかない」

G大阪がクラブ史上初タイトルとなるリーグ優勝を経験して迎えた2006年。寺田はプロ3年目にしてリーグ優勝を争いながら、J1リーグで20試合(先発4)に出場。プロとしてやっていける自信が持てたシーズンとなった。翌2007年にはJ1初得点も記録し21試合出場(先発5)と確かな成長曲線を描く。

ただ、当時のG大阪は黄金期を迎えていた。特にMF陣には「黄金の中盤」と称される遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎、明神智和の4人が揃い、2007年に日本代表デビューも果たしたMF家長でさえ、満足な出場機会を掴めなかった時代だ

順調なステップを踏みつつあった寺田だが、そこには葛藤もあった。

―MF陣に代表クラスの選手が揃う中、試合出場の機会も得てきました。ポジション争いをするうえで、どんなことを考えていたのですか?

「当時の西野朗監督(タイ代表監督)にはほとんど攻撃のことしか言われていなくて、何とか自分のところで攻撃のアクセントになれるように、と考えていました。周りの選手がみんな代表クラスというのはありましたけれど、実際はそんなことを意識する余裕もないぐらいに必死でした」

―当時の寺田選手は右のウイングバックもこなすなどサイド攻撃を担う役割が多く、ドリブラーとして見られていたと思います。パサータイプが揃う中で求められる役割には葛藤があったのでは?

「周りの選手やコーチ陣、サポーターの方からもドリブラーだと見られていたと思います。もちろん、僕もドリブルは得意なのですが、ドリブルやパス、ワンツーなどを組み合わせて自由な攻撃を仕掛けるのが自分のスタイルだと思ってはいたんです。

でも試合に出る。特に途中から試合に出るとなったら『まずドリブルで仕掛けろ』と指示を受けることが多かったですね。周りの選手も僕をドリブラーとして見ているので、試合に出ると『おまえはドリブルで仕掛けて来い』という感じのパスが来ていて、サポートの動きも少なくなるという感じでした。

個人的にはもっと自由にやりたいとは思っていたのですが、とにかく必死でしたからね。ガンバにいた時は、毎日まわりに必死についていく、という記憶しかないですね」


寺田紳一(横浜FC時代)写真提供:Gettyimages

天皇杯決勝の舞台裏とキャリアの転換期

2007年1月1日の天皇杯決勝。G大阪は浦和レッズを相手に圧倒的に押し込み続けたものの、0-1と惜敗。この日のG大阪は選手交代を1度も行わず、ベンチで90分間を過ごした寺田が主力との大きな差を感じたのは間違いない。

2年後の2009年の元日。寺田は再び挑んだ天皇杯決勝で柏レイソルを相手に120分間フル出場。両チームで最多となる6本のシュートを放ち、そのリベンジを果たした。しかし、その舞台裏には悩みや葛藤があり、1年後に横浜FCへの初めてのレンタル移籍を決断するキャリアの転換期を迎えていた。

「天皇杯は難しい大会です。決勝が元日に行われる中、ガンバは特にその頃の天皇杯で強かったのですが、正直言って決勝まで進出するとオフが全く取れなくなるという複雑な想いも生まれてきます。僕は一時期、“天皇杯男”と呼ばれるぐらいに天皇杯でよくゴールを決めていました。天皇杯の決勝は本当に小さい頃からテレビで観ていた憧れの舞台でした。まさか自分があの大舞台でプレーすることになるとは思っていなかったですね。

だから、2009年の元日決勝で120分間プレーした時は嬉しかったですよ。特に僕の両親や祖父母、友人たちが元日に僕のプレーを観て喜んでくれているのを知った時、自分でも『凄いことをしているんだな』と思いました。

天皇杯決勝の相手がレイソルだったのですが、当時、僕はそのレイソルから移籍のオファーを受けていました。次の(2009年)シーズンからレイソルの監督が高橋真一郎さんという僕のガンバユース時代の監督が就任することが決まっていたんです。レイソルのGMであり元ガンバのコーチだった竹本一彦さん(日テレ・東京ヴェルディベレーザ監督)からも話がありました。『レイソルに移籍しよう』と思って、あの決勝を戦っていたんです。

でも試合をしている中で『やっぱりガンバでやった方が良いよな?ガンバの選手はみんな上手いし、ガンバにいた方が成長できる』と考えて残留することにしました。後々考えればあのタイミングで移籍した方が良かったのかもしれません(2008年から出場機会が減っていたため)。もし天皇杯決勝の相手がレイソルではなかったら、僕はレイソルに移籍していたと思いますね。

移籍のオファーは複数のチームからいただいていました。その中で横浜FCに決めたのは、岸野靖之さんが監督に就任することが決まったからです。実はレイソルとの天皇杯決勝も観に来られていて、当時はサガン鳥栖の監督をされていた岸野さんと試合後にお会いしました。『是非とも来て欲しい』と、口説かれました。

岸野さんは自分で自分に足りないと思っていた部分を熱く指摘してくれました。ガンバユース出身者特有の欠点なのかもしれませんが、泥臭さや球際の強さ、メンタル的な強さを求めてくれていました。僕自身もそういう環境でプレーしたいという気持ちが芽生えて、横浜FCへのレンタル移籍を決断しました」


FIFAクラブW杯、マンU戦のエピソード

G大阪時代の寺田は「もっと自由にプレーしたい」と願ってはいたものの「自由」には「責任」が伴うことを理解していた。

前編の最後はG大阪時代に経験した最大のビッグマッチの舞台裏で起きたエピソードで締めよう。

2009年元日の天皇杯優勝の2週間前、G大阪はアジア王者として「FIFAクラブW杯」を戦っていた。準決勝で欧州王者マンチェスター・ユナイテッドを相手にし3-5と敗れはしたものの、世界に向けて大きなインパクトを残した。

「僕はあの試合にはラスト5分ほどしか出場していないので何とも言えないのですが、振り返るとマンチェスター・ユナイテッドと公式戦を戦ったっていうのは凄いことですよね。ただ、今もクリスティアーノ・ロナウド選手(ポルトガル代表、ユベントス)が世界のトップ・オブ・トップでやり続けているっていうことが1番凄いことだなと思います。

実は、あの時は試合前から『結婚して子供も生まれたから記念に』っていうことで、ミチ(安田理大)がロナウド選手とユニフォームを交換することが決まっていたんです。

僕はカルロス・テベス選手(アルゼンチン代表、ボカ・ジュニアーズ)が好きだったのでユニフォームを交換したかったのですが、彼は途中でピッチを退いていたので叶わず。それでも試合後に4人くらいでマンチェスター側のロッカールームにユニフォーム交換をお願いしに行きました。

するとスタッフの方に『今は大会中でユニフォームの数が限られるから、大会終了後に送るよ』と言われて、僕らのユニフォームだけユナイテッド側に渡したんです。でも未だにユニフォームは届いていません。いつ来るんですかね?(笑)」

後編へ:J通算311試合出場!おこしやす京都MF寺田紳一の現在と未来。インタビュー【後編】


寺田紳一プロフィール

MF:1985年6月10日生まれ:大阪府茨木市出身:ジュニアユース、ユースと所属したG大阪でトップチーム昇格。2004年のプロデビュー以来、持ち前のテクニックを武器に黄金時代を迎えていたG大阪で着実に出場機会を得たものの、主力にはなりきれず。2010年から当時J2の横浜FCへレンタル移籍。2年間の武者修行からG大阪へ復帰するも、再び横浜FCへ。2018年からJ2・栃木SCでの2年間のプレーを経た2020年、関西1部・おこしやす京都ACへ移籍。現在に至る。

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