ワールドカップ

バロンドールの受賞者/候補者でありながらW杯に出場していない英雄6選手

4年に1度しか開催されないフットボールの祭典であるワールドカップに出場することは名誉であり、フットボーラーにとっての夢のひとつと言える。今回はそんなW杯に、バロンドールの受賞者/候補者でありながらも出場しなかった6選手を紹介する。

アルフレッド・ディ・ステファノ

国籍:アルゼンチン/コロンビア/スペイン

バロンドール:1957年、1959年共に受賞

数奇な運命をたどったレアル・マドリードのレジェンド、ディ・ステファノ。
1946年大会は第二次世界大戦により中止に。
1950年大会はブラジルで開催されたために、アルゼンチンは参加しないことを決定。
1954年大会当時、アルゼンチンとコロンビアのパスポートを持っていたディ・ステファノ。FIFAは2つの国籍を持っている選手のプレーを許さなかったために、大会に参加できず。
1958年大会にはスペイン代表としての出場を目指したディ・ステファノ。当時のスペインは強豪だったものの、W杯出場を逃した。
1962年大会にはようやく出場、となるはずが大会直前に怪我をして離脱。
1966年怪我により引退。

ダンカン・エドワーズ

国籍:イングランド

バロンドール:1957年3位

「バスビー・ベイブス」の一員としてマット・バスビー率いるマンチェスター・ユナイテッドで活躍したエドワーズは、「ミュンヘンの悲劇」で命を落とした。その類まれなキャプテンシーで、18歳の時にはチームの中心選手としてプレーし、彼がこの世を去った21歳当時にはクラブのキャプテンを務めていた。この事故によりW杯に出場することはなかった。

ジョージ・ベスト

国籍:北アイルランド

バロンドール:1968年受賞

彼に現役時代に北アイルランドがW杯に出場したのは1982年のスペイン大会のみ。その時には36歳になっていたベストは代表に呼ばれることはなかった。そのチャーミングな容姿で絶大な人気を博し「5人目のビートルズ」と評された天才ドリブラーは、過剰な報道などによるストレスからアルコール依存症に陥り、結果的に肝臓を患いそれが元で腎臓の感染症で2005年に59歳の若さで死去した。

ベルント・シュスター

国籍:ドイツ

バロンドール:1980年2位、1981年と1985年3位

天才的なゲームメイカーで高精度のパスを誇ったシュスターは、何と24歳の時にドイツ代表(当時は西ドイツ)から引退を表明。1980年のUEFA EUROでは20歳ながら優勝に貢献する活躍を見せたものの、代表引退後は1986年のメキシコ大会、1994年アメリカ大会に出場要請を受けたもののどちらも辞退している。

ジョージ・ウェア

国籍:リベリア

バロンドール:1995年受賞

ウェアの母国であるリベリアはW杯に出場したことがない。モナコやパリ・サンジェルマン、そしてミランでプレーした彼は飛びぬけた身体能力で他を圧倒。数々の印象的なゴールを決めた。引退後は政治家に転身し、現在はリベリアの大統領を務めている。

ヤリ・リトマネン

国籍:フィンランド

バロンドール:1995年3位

W杯に出場したことのないフィンランドの英雄であるリトマネン。1994/95シーズンにアヤックスのエースとしてリーグ戦とチャンピオンズリーグの2冠を達成。自身もリーグの得点王に輝いた。その後移籍したバルセロナでは活躍することができず、古巣のアヤックスやHJKヘルシンキなどでプレーした。その優れた判断力は1994/95シーズン当時のアヤックスでは異彩を放ち、数多くのファンを魅了した。