
アイデア不在の攻撃、セットプレー依存の裏側
現在のアーセナルには、流れの中から相手を崩すアイデアが致命的に欠落している。アーセナルが誇る攻撃手法はセットプレーであり、昨シーズンの公式戦通して決めた36ものセットプレーからのゴールは、他のクラブを圧倒している。
しかしこれは、攻撃における戦術的再現性が「いかにしてコーナーキックを獲得するか」というプロセスにしかないことを意味する。彼らの得点源の多くは、セットプレーコーチのニコラ・ジョベール氏が仕込んだものだ。セットプレー得点は、確かに脅威だが、その裏返しは「オープンプレーでの創造性の完全な死」である。攻撃はFWサカやMFウーデゴールの個の能力に丸投げされ、FWマルティネッリ、ジェズス、FWトロサールといったアタッカー陣はアルテタ監督の硬直したシステムの中でむしろ後退している。
昨シーズンのリーグ戦、マンチェスター・ユナイテッド戦(2-3で敗北)は、その限界を象徴するゲームだった。立ち上がりの30分を支配しながら自らのミスから崩壊し、FWブライアン・ムベウモにゴールを許して失速。その後立て続けに失点し敗戦を喫した。唯一アーセナルが抵抗できたのは、セットプレーからMFミケル・メリーノが泥臭く押し込んだゴールのみ。試合後には退屈な戦術とふがいない結果にファンから容赦ないブーイングが浴びせられ、試合終了を待たずに観客が早期退場する事態となった。結果が出なくなったとき、アルテタ監督の「ハラムボール」にはファンの信頼を繋ぎ止める魅力すら残らない。

組織の硬直化と柔軟性の欠如
現代のトップクラブチームは、対戦相手や状況に応じて戦い方を柔軟に変えられる「流動的な有機的組織」でなければ生き残れない。しかし、アルテタ監督が作り上げたのは、役割がガチガチに固定された「個に依存した官僚的組織」である。ディフェンスラインにおいて、DFウィリアム・サリバとDFガブリエルのコンビが揃っていれば堅牢だが、どちらか一枚でも欠ければ、組織としての守備は一気に不安定化する。代わりのピースがその穴を埋める有機的なカバーリングシステムは存在せず、個人の絶対的クオリティのみに依存しているからだ。
アルテタ監督は、自分が事前に用意し、コントロールし尽くしたシチュエーションの中に試合を閉じ込める思想に取り憑かれている。そのため、ピッチ上で予期せぬトラブルが発生したり、相手に主動権を握られたりした際、柔軟に適応するための「経験則」をほとんど持ち合わせていない。この戦術の硬直化は、イノベーションのジレンマとして一気に凋落を招く可能性を大いにはらんでいる。

1クラブのみの指揮実績という限界
アルテタ監督が「名将」の称号を得るにふさわしくない決定的な理由は、彼のキャリアの狭さにある。彼は監督として、アーセナルという巨大で資金力のある1つのクラブしか経験していないのだ。真の名将と呼ばれる指揮官、グアルディオラ監督、クロップ監督、あるいはカルロ・アンチェロッティ監督といった人物たちは、異なるリーグ、異なる財政規模の複数クラブを率い、それぞれの場所で自らの哲学を証明し、実績を残してきた。
それに対し、アルテタ監督はどうだろうか。彼はアーセナルという、自身が現役時代を過ごし、多大なリソースを自由に使える「温室」のような環境でしか結果を出していない。現在の実績だけでは、限られたリソースの中で圧倒的な柔軟性を見せ、セビージャやアストン・ビラで目覚ましい手腕を発揮しているウナイ・エメリ監督のような実力者と肩を並べることすらおこがましい。アルテタ監督が本当の意味で「名将」と呼ばれるための試練は、異なる環境で自らの哲学を再現し、実績を残せるかどうかという点にかかっている。
大砲が泣いている。プレミアリーグを制したとはいえ、アルテタ監督がアーセナルにもたらしたフットボールはファンが夢見た「栄光の帰還」ではない。それは、勝利のためにフットボールの魂を売り払い、姑息な手立てに逃げ込んだ「アンチ・フットボール」の泥沼である。
グアルディオラ監督から王位を引き継ぐアタッキングフットボールの体現者と思われたスパンを過ぎ、彼が提示した最終形態は、モウリーニョ監督やディエゴ・シメオネ監督の焼き直しにすぎない。そこにはかつてのベンゲルが愛した美学も、シティやリバプールがピッチ上で放つ「王者の威厳」もない。
小手先のセットプレーと、ルールを欺く時間稼ぎでファンを興醒めさせ続けるアーセナル。イノベーションのジレンマに陥り、その戦術が完全に無力化される日はそう遠くないだろう。アルテタ監督が「模倣者」から「創造者」へと脱皮しない限り、このクラブが真の、そして持続可能な黄金期を迎えることは決してないのだ。
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