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神戸FWボージャンは「メッシの後継者」ではない!エトオが認めたバルサ9番の軌跡

バルセロナ時代のボージャンとロナウジーニョ 写真提供:Gettyimages

17歳ボージャン台頭の背景

日本でバルセロナの人気に火がついたのは、当時世界最高の実力と人気を手にしていたブラジル代表FWロナウジーニョが所属していた2005年前後からだった。しかし、バルセロナがUEFAチャンピオンズリーグ(CL)とリーガの2冠を獲得して迎えた2006/07シーズンは、そのロナウジーニョの夜遊びと不摂生による度重なる欠場が続き、エースのカメルーン代表FWサミュエル・エトオも怪我で長期離脱に見舞われるなどして無冠に終わっている。

この傾向は翌2007/08シーズンも続いたために、前シーズンに16歳ながらバルセロナBで22試合10ゴールを挙げていたボージャンに大きなチャンスがやって来たのだ。18歳のメッシを主力に抜擢した当時のフランク・ライカールト監督は、17歳のボージャンを[4-3-3]のセンターフォワードに据えた。右ウイングだったメッシに、センターのボージャン、左ウイングには下部組織出身でボージャンより1歳年上のメキシコ代表FWジョバニ・ドス・サントスが入って、若手3トップを形成するような時もあった。

つまり、ロナウジーニョとエトオの稼働率が著しく低下していた事がボージャンの主力定着には大きく関係しており、本来は年間10ゴールでバルセロナの前線は務まらない。ボージャンはそのチャンスをしっかりと掴んだ。

そして翌2008/09シーズンからジョゼップ・グアルディオラ監督(現マンチェスター・シティ)がトップチームの指揮官に就任し、初年度からCLとリーガ、コパ・デルレイの3冠を達成するバルセロナの「超黄金期」が始まった。


バルセロナ時代のサミュエル・エトオ 写真提供:Gettyimages

勝気な男エトオが認めた「9番」

グアルディオラ監督は就任会見で、当時バルセロナの顔であった「ロナウジーニョとデコ、エトオを戦力外とする」と発言。ボージャンの時代が来るのか?と思われた。しかし、ロナウジーニョとデコが退団した一方、エトオはチームに残留。メッシやティエリ・アンリと共に3トップを組み、チーム最多30ゴールを挙げた。ボージャンもエトオの控えとしてカップ戦で結果を残し、3冠にも貢献したと言えるだろう。

エトオは絶対に自分以外の選手を認めないような勝気なストライカーだったが、ボージャンのことは「いずれ彼は俺をバルサから追い出すことになるだろう」と、よくメディアの前で笑顔で話していた。ボージャンはエトオに認められた9番(センターフォワードのポジション番号)だったのだ。

しかし、エトオはグアルディオラ監督とソリが合わず、3冠達成直後にインテルから獲得したスウェーデン代表FWズラタン・イブラヒモビッチ(現ミラン)の移籍金の一部としてトレードされる。そのイブラヒモビッチもチームにフィットできずに1年で退団するのだが、替わって9番のポジションについていくのは、身長170cmのボージャンではなく、さらに小さい169cmのメッシだった。

3冠達成の2008/09シーズン第34節レアル・マドリードとの対戦「エル・クラシコ」でグアルディオラ監督は、エトオを右サイドに、メッシを最前線の中央に配置。メッシは頻繁にトップ下の位置まで下がり、中盤での数的優位を確保しながらプレーするため「ファルソ・ヌエベ(偽9番)」と呼ばれた。「メッシについていくべきか、スペースを守るのか?」相手DFを戸惑わせる最強の戦術は、この敵地でのクラシコでベールを脱ぎ、2-6と圧勝をもたらした。また、直後のCL決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でも採用されて、2-0の完勝を収めていた。

3冠達成を強力に後押ししたオプションである「ファルソ・ヌエベ」を、遂にメイン戦術として採用し始めたバルセロナは、2010/11シーズンにもCLとリーガの2冠を獲得。メッシもボージャンもエトオが認めた9番だったが、メッシが世界最高の名を欲しいままにする裏で、メッシにポジションを奪われたボージャンは、この年限りでバルセロナを離れた。

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