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中田英寿、イタリアでの大冒険(第5弾):ボローニャ&フィオレンティーナ編

写真提供: ac-perugia.com

こんにちは。ダビデです。今日も私の知っている中田英寿を語りたいと思います。このシリーズを始めて読む方はまずは第1弾第2弾第3弾、そして第4弾を読むことお勧めします。

セリエA2004/2005年シーズンのスタートがあまり良くなかったため、中田はパルマを離れ、ボローニャに移籍しました。その前の6ヶ月が嘘だったのように、中田はパルマを離れてからすぐ、調子を取り戻すことができた。いちばんの理由はピッチ内のポジションにあると思います。中田がボローニャでカバーしていたポジションはペルージャにいた頃に似たようなポジション。攻撃にも参加できていたし、スペースを使って割と自由に動けた。

特に守備的な役割が与えられなかったが、中田はパルマで学んだことを生かし、守備にも協力をする。1月からシーズンの終わりにかけて、中田は17回試合に出場して、2得点を決めた。ボローニャはそのシーズン残留争いに巻き込まずに、余裕を持ってセリエAに残ることができた。しかし、中田はいい成績を残したにも関わらず、ボローニャを離れてフィオレンティーナに移籍することにした。

写真提供: Museo Fiorentina FBページ

彼にとってフィオレンティーナで過ごしたシーズンはいちばん良くなかったシーズンになる。簡単でいうと中田っぽい中田を見せることができなかった。スピードはまるで別人のように遅かったし、いつものキレのあるプレーもできなかった。それは体力の問題だけではなかったと思う。精神的にもブレーキがかかっていたように、ファンタジーのあるプレーを見せれなかった。

そのシーズン、フィオレンティーナは3回監督を変えた。しかし、どの監督ともあまりうまくいかなかった。結果、1シーズンを通して20回しか出場できなかったし、その20回の数回は途中出場であった。また、中田にとってそのシーズンは初めての無得点のシーズンでだった。そして、中田はイタリアを離れレンタルでイギリスのボルトン・ワンダラーズに移籍した。

不思議なことに、フィオレンティーナでいいサッカーを見せられなかったとしても、中田はフィレンツェをとても気に入って、イタリアの一番好きな街になったという。確かに中田はスタイリッシュな男で、穏やかで、アートが好きなので、彼にとってフィレンツェはぴったりの街だった。

写真提供: Gettyimages

これで中田英寿のイタリアでの冒険が終わる。イタリアで過ごした7シーズンを全体的に考えたら、とても素晴らしい活躍だった。イタリア人に「一番強い日本人のサッカー選手は誰?」と尋ねたら、未だに「中田英寿です」と答えるに違いない。今もイタリアのサポータは中田に興味があり、サッカーと関係なくても、彼の今の活躍もフォローしている。サッカーを引退してから世界を回ったことも、日本酒を世界に発信していることも知っている。

イタリア人にとってサッカーはいちばん大事なことです。これからも我々に美しいサッカーを見せた中田を愛し続けます。

名前Uccheddu Davide(ウッケッドゥ・ダビデ)
国籍:イタリア
趣味:サッカー、アニメ、ボウリング、囲碁
好きなチーム:ACミラン、北海道コンサドーレ札幌、アビスパ福岡

14年前に来日したイタリア人です。フットボール・トライブ設立メンバーの1人。6歳の時に初めてミランの練習に連れて行ってもらい、マルディーニ、バレージ、コスタクルタに会ってからミランのサポーターに。アビスパ福岡でファビオ・ペッキア監督の通訳も務めた経験があります。

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