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サッカー界における10の悲劇。歴史を繰り返さないために…

決して忘れてはいけないフットボールの歴史がある。我々は多くの悲劇から学び、二度と同じ惨事を繰り返さないよう気をつけなければならない。今回は歴史上に残る悲劇をご紹介したい。

スペルガの悲劇

1940年代のトリノは“Grande Torino”(偉大なるトリノ)と称され、欧州中に名を轟かせるセリエAの強豪チームであった。だが、1949年5月4日悲劇は起こった。ポルトガルのリスボンで行われたベンフィカとの親善試合からトリノへ帰る途中、飛行機はイタリア・トリノ郊外の丘陵地、通称「スペルガの丘」で墜落。選手18名、スタッフ5名を含む、乗組員、乗員の全31名が犠牲となった。

ラミア航空2933便墜落事故

2016年11月28日、シャペコエンセのメンバー・首脳陣ら50人を乗せた飛行機はコパ・スダメリカーナ2016決勝1st レグに向かうため、ボリビアのビルビル国際空港からコロンビアのホセ・マリア・コルドバ国際空港へ。しかし、コルドバ国際空港から約17kmの地点であるアンティオキア県ラ・ウニオンの山中で飛行機は墜落した。選手の生存者は25名中3名のみ。ジャクソン・フォルマンは右足を切断する重傷を負った。

ヒルズボロの悲劇

1989年4月15日にヒルズボロ・スタジアムで行われた、FAカップ準決勝のリヴァプール対ノッティンガム・フォレスト戦で悲劇は起きた。ゴール裏の立見席に収容能力を上回るサポーターが押し寄せたことで、観客は互いの体によって押しつぶされ、重軽傷766人、死者96人が犠牲となった。その後、英国では安全対策がより厳格に求められ、スタジアム管理の改革が進められている。

ミュンヘンの悲劇

当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドはイングランド代表として初めてチャンピオンズカップに出場。しかし、孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会はこれに反発、強行日程を強いていた。1958年2月6日、敵地・ベオグラードから悪天候でのフライトを余儀無くされたユナイテッドのチャーター機は滑空時に空き家へ突っ込み炎上。乗員乗客44名のうち、23名が死亡、選手は死亡8人、重傷7人の大惨事となった。

ガボン航空惨事

1993年4月27日、ザンビア代表の選手らはFIFAワールドカップ・アフリカ予選のセネガル戦に向かうため、ザンビア空軍の輸送機に搭乗。経由地点であったガボンの首都リーブルヴィルの空港で、離陸直後に大西洋上に墜落した。選手、スタッフら合計30人が死亡。当時のザンビア代表はアフリカの強豪国の一つとして知られ、ソウルオリンピックでは準々決勝に進出していた。

トーゴ代表バス襲撃事件

2010年1月8日、アフリカネイションズカップ2010に参加するため、開催地のアンゴラに入ったトーゴ代表。しかし、選手らを輸送したバスが武装勢力に襲撃された。これにより、チーム関係者ら10人が死傷。事件後、カビンダの分離独立を目指すカビンダ解放戦線が犯行声明を発表。トーゴ代表の選手は大会に出場する意思を示していたが、トーゴ政府が帰国を指示し大会を欠場することになった。

ヘイゼルの悲劇

1985年5月29日、ベルギー・ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで行われたUEFAチャンピオンズカップ決勝リバプール対ユベントスの試合前に、サポーター同士が衝突。リバプール側の挑発から端を発した騒動は、次第に激化。死者39名、負傷者400人以上に発展した。この事件の制裁措置として、UEFAはリバプールに対して6年間、イングランドの全クラブに対してUEFA主催の国際試合を対象に5年間の出場停止処分を下した。

1979年ドニプロゼルジーンシク空中衝突事故

1979年8月11日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のドニプロゼルジーンシク付近で発生した飛行機による空中衝突事故。ソビエト1部リーグに所属していたパフタコール・タシュケントの17人の選手とスタッフを含む、両機に搭乗していた178人全員が死亡した。

アリアンサ・リマ航空惨事

ペルー1部リーグのアリアンサ・リマに所属していた27名の選手を乗せた軍用機がパイロットのミスにより、リマ近郊の大平洋に墜落。選手、監督、チームスタッフ全員が死亡したが、パイロットだけが生き残った。

アイブロックスの惨事

セルティックとレンジャーズの『オールドファーム』は世界で最も激しいダービーの一つに数えられる。8万人以上の観客が詰めかけた1971年1月2日の試合で惨事は起こった。試合終了後に狭い出口へ人が殺到し、66人が死亡し200人以上が負傷した。事件後、スタジアムの大規模な安全改革が行われ、立ち見席を全着席方式に変更。収容人数を8万人から4万4000人に縮小するなど、近代的な設備へと生まれ変わり、世界的な変革のきっかけとなったヘイゼルの悲劇やヒルズボロの悲劇に先立って改革が行われていた。