ラ・リーガ レアル・マドリード

レアルの特殊な指揮官事情。名声や創造への願望が行き着く先は…

著者:Seb Stafford-Bloor
英メディア『Tifo』のコンテンツエディターを務め、『Four Four Two』にも執筆するライター

ジネディーヌ・ジダンはレアル・マドリードで苦しんでいる最中だ。スペインの巨人はチャンピオンズリーグのノックアウトステージを勝ち進むだろうが、彼らは現在国内リーグで4位であり、バルセロナに大きく水をあけられている。

ジダンは監督の座を引き継いでから二年連続でヨーロッパのカップを勝ち取るなど、素晴らしい連勝も成し遂げたかもしれない。しかし、現時点で彼の雇用は信用に大きく依存しているようだ。彼はクラブ史上最も優れたプレーヤーのひとりだった。そのことが彼により、自由を与えている。

フロレンティーノ・ペレス会長の変化に対する貪欲さがマドリードに勝利を収めさせてきた。奇跡が起こらないかぎり、無意味な慰めの言葉とともにジダンはクラブを出ていくことになるはずだ。そして、輝かしい新時代が幕を開ける。

しかし、その後のジダンは...?彼の栄光が衰退することを考えると奇妙な質問だが、世界は彼の監督としての手腕を本当に知っているのだろうか。ラファ・ベニテスから監督を引き継いだ2年間で、ベルナベウのトロフィールームへすごい速さでトロフィーが加えていった。ヨーロッパは彼の卓越した才能によって2期連続で征服され、2つのクラブワールドカップのトロフィーは、トランクケースに入れられたものの誰の手にも渡ることなくスペインへと持ち帰られた。

ジダンは“なぜ世間は彼の監督キャリアに無関心なのか”不思議に思うだろう。彼が夏にクラブを去る場合、メガクラブが彼をめぐって競合することはないだろう。

奇妙な状況だが、マドリードの退廃したチームとジダンのコーチングの影響がどこまで関係あるものなのか、誰にも分らないということだ。確かに、チームの成功から監督を切り離して考える傾向にあるが、チームの失敗については全責任を負わされる。疑わしければコーチを罰する。

評価の観点から夏にぺレスからアプローチされた監督、特に上昇気流に乗っている者は注意が必要だ。表面的には夢の仕事だ。高給、素晴らしい選手たち、そして最も重要なのは誰もがうらやむヨーロッパのトロフィーを勝ち取る、現実的なチャンスを得られることだ。

魅力の背景には、厄介な現実が隠れている。レアル・マドリードは選手主体のクラブだ。イングランド、ドイツ、イタリア、そして永遠のライバルであるカタルーニャのクラブとさえも違い、近年のマドリードは監督の判断力にあまり左右されていない。ここ数十年に通り過ぎた様々な時代において、彼らは戦術的変更や避けられない監督人事によってではなく、スター選手や移籍市場でのポリシーによって上下してきた。

時間の短さだ。過去18年間で14人の監督を招聘してきたクラブであり、それはこの組織の性質を説明している。監督はここではアイデンティティを作り出さない。だから、一度クラブを去ってしまえばその監督の痕跡はほんの少し残るだけだ。

レガシーの観点から見て、クライフ、ファーガソン、グアルディオラなどと比べると、信じられないほど少ない機会しか与えられない。それは、短気な者たちによって、全面を守られている厳格なカルチャーを持つクラブであり、ある面では、監督が受けうる最悪の仕事だと言えよう。

少なくとも、若い監督にとっては、最悪の仕事だ。

最近ではマウリシオ・ポチェッティーノがジダンの後釜として有力視されているが、彼はこのケースに当てはまるだろう。一見、マドリードの指揮を執ることは、ポチェッティーノのような人物とって妥当な判断のように見える。彼の才能をメダルによって裏付けるチャンスだし、ヨーロッパのフットボール界に彼の名前を刻むこともできる。

しかし、それはあまりにウブだ。考え得るどんな成功もドレッシングルームのエゴに再分配されるだろう。失敗は有益だけれども、将来インタビューでそのことについて一生答え続けるはめになるはずだ。ポチェッティーノはビッグクラブでうまく選手を扱えない監督という烙印を押され、それはその後のキャリアについて回ることになる。

ポチェッティーノの影響力は彼がその組織の中でどれだけ主導権を握れるかに依存している。トッテナムでは支配者ではないにしても、間違いなく地元の雰囲気を掌握することに依存している。スタッフや選手たちは彼に対して忠実であるし、クラブのどこにもポチェッティーノの権力を脅かす存在はいない。

もしそれらの状況が、ノースロンドンでの彼の成功をもたらした要因だとすれば、監督は、ただのクラブの一員に過ぎないマドリードで、彼は苦しむことになるだろう。

暴力的な人事を繰り返すクラブは“負けのない状況を作り出す”としばしば言われるが、それはすでに自身の評価を確固たるものにした監督にのみに適用されることだ。レアル・マドリードやチェルシー、パリ・サンジェルマンなどのクラブを解雇された監督は履歴書の反証にかかわらず、その後のキャリアを続けることができる。

ほかのクラブでの成功を十分に証明できる場合、その失敗が、機能不全による避けられない結果だったと証明することは簡単だ。しかし、チェルシーでのアンドレ・ビラス=ボアスがそうであったように、酷い環境下で期待以下のパフォーマンスだったとしても、それは半永久的な汚点となる。

ボルドーでの成功にかかわらず、PSGの独特な雰囲気を操作できなかったことはローラン・ブランにとって特に高くついた。同じように、英国の読者はマンチェスター・ユナイテッドがファーガソンの後任にデイビッド・モイーズを選んだことにどれだけ批判が集まったか、思い出す必要はない。

マドリードはよく言えば有益な休暇である。それは将来へ向けた前進と言うよりも、過去の功績に対するご褒美だ。ジダンがもうすぐ証明できるように、そこは監督としての評価に何かが加えられるというよりも、そのまま停滞するような奇妙な世界だ。

新しく、より輝かしい人物がクラブの責任者の目に留まると、見放された現職者自身にはもはや居場所がないことに気づかされるだろう。

“口座から小切手を受け取り、机に車のカギを置いていきなさい”

その仕事がやる価値のあるものなのかどうかはその人物がすでに、彼の人生における仕事を完成させているかどうかによって決まる。ヨーロッパの様々なリーグで、多くの経験を積んだ監督の履歴書には艶やかさがある。しかし、パフォーマンスに対する名声や、創造に対する願望を持つ者にとっては栄光に浸る以上の機会は与えられないだろう。