日本代表・海外組 Jリーグ

セレッソ復帰の乾貴士。スペイン時代の変貌に至るまでを紐解く!

乾貴士(現セレッソ大阪)写真提供:Gettyimages

明治安田生命J1リーグのセレッソ大阪は8月31日、元日本代表MF乾貴士が10年ぶりにチームに復帰することを発表した。日本代表として36試合出場6ゴールを記録する乾は「FIFAワールドカップ2018ロシア大会」で2ゴールを挙げ、大会直前の監督交代で揺れた日本をベスト16進出に導いた国民的プレーヤーである。

ここでは高校時代に「セクシーフットボール」で注目を集めた乾が、6年間プレーしたスペインで変貌を遂げた理由などを紐解きたい。


滋賀県立野洲高等学校サッカー部

「セクシーフットボーラー」で名を上げる

乾貴士の名前を一躍日本全土に知らしめたのは、2005年度の第84回全国高等学校サッカー選手権大会だった。滋賀県出身の乾は地元の滋賀県立野洲高等学校の2年生として出場。緩急自在のステップワークと独創的なアイデアが融合したドリブルが魅力のウイングとしてプレー。一学年上の楠神順平(現関東2部南葛SC)や青木孝太(ジェフユナイテッド千葉などで活躍)、同級生の荒堀謙次(栃木SCなどで活躍)、田中雄大(水戸ホーリーホックなどで活躍)など、後にJリーガーとなった選手が多く在籍する県立高校の技巧派集団が初優勝を飾った。

チームを率いる山本佳司監督(現総監督)は「なぜ日本の高校生がブラジル代表のロナウジーニョを目指すことがいけないのか?」と問題提起し、高い技術に裏打ちされたテクニックや個人のアイデア、コンビネーションを武器にする攻撃サッカーを貫いた。その美しさから「セクシーフットボール」と表現され、旧態依然としていた日本の高校サッカー界に風穴をあけた野洲高校のメンバーは一躍注目を浴びた。

ところが、高卒でプロ入りした野洲の絶対的エースだった青木、大学からプロ入りした楠神や荒堀、田中らはJ1の舞台では活躍できなかった。共にC大阪でもプレーした楠神や村田和哉はスーパーサブとして活躍したが、それぞれキャリア通算のJ1通算得点は10ゴール、8ゴールのみだ。セクシーフットボールではプロの壁は高かったのか?時代が早過ぎて潰されたようにも見えた。

そんな中、乾は飛び級でU-21日本代表にも召集されるなど大きな期待を受け、高校卒業後の2007年にはJ1の横浜F・マリノスへ加入。しかし、先輩や同級生たちと同様に苦戦した。1年目こそ若手抜擢に積極的な早野宏史監督(現NHK解説者)の下でJ1リーグ7試合を含む公式戦10試合で出番を得たが、同監督が1年限りで退任すると2年目はリーグでの出番がなくなり、20歳を迎えた乾は大きな賭けに出る。


香川真司(左)乾貴士(右)写真提供:Gettyimages

香川真司との「黄金コンビ」

2008年6月、乾はJ2で苦戦するC大阪へのレンタル移籍を決断。当時はまだJ1の選手がJ2へ行くことは「都落ち」の感覚が根付いていたが、乾はここで10年後のロシアW杯でも日本を救う「黄金コンビ」の相棒、香川真司(現ギリシャ1部PAOK)と出会う。

サッカー以外の時間に関しては無頓着で「普通に生活できれば何でもいい」という根っからの「サッカー小僧」である乾にとって、当時のC大阪を率いるレヴィー・クルピ監督のサッカーは個人の特徴や閃きなど意外性のあるプレーを許容する馴染みやすいものだった。ただ、クルピ監督は香川や乾に対して常に「数字を残せ」と結果への追求だけは強かった。「テクニックやスピードがあってドリブルが巧い。キックも巧い。でも、それを数字に残せなければ何も残らない。そのスキルを得点やアシストに還元しろ!」と。

乾はレンタル期間の半年でJ2リーグ20試合に出場して6ゴールを挙げたが、チームのJ1昇格はならず。それでもC大阪へ完全移籍して臨んだ翌2009年は47試合出場で20ゴールを挙げ、同27ゴールで得点王に輝いた香川と共にチームを牽引。J1昇格へ導いた黄金コンビはピッチ上では言葉を交わさずとも、絶妙なワンツーやフリーランを駆使してお互いのマークを振り払った。「目配せデュオ」は、FW以上に2列目の技巧派MFが得点を量産するセレッソのサッカーを完成させた。

香川はJ1へ昇格した半年後、ドイツの強豪ボルシア・ドルトムントへ移籍。ドイツ移籍後も前半戦MVPに選出されるなど、その後も世界の「KAGAWA」への進撃を続けた。一方、チームに残った乾は初めてJ1で主力としてシーズン通した活躍を続け、2010年はJ2からの昇格組だったC大阪を3位へ押し上げ、クラブ史上初のAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献した。

そして、2011年8月には乾もドイツ2部のボーフムへ移籍。チームの1部昇格はならなかったが、自身はチーム最多7ゴールを挙げてドイツ1部のアイントラハト・フランクフルトへ引き抜かれた。フランクフルトでは紆余曲折ありながらもアルミン・フェ―やトーマス・シャーフといったドイツ1部の優勝経験を持つ監督の下で約3年間プレーし、2015年8月に「念願だった」スペイン移籍が決まった。

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