Jリーグ 湘南ベルマーレ

湘南の広報、遠藤さちえ氏「Jリーグの歴史と共に」インタビュー前編

写真提供:湘南ベルマーレ

1993年に開幕したJリーグも、今年で30周年。歴代の選手や監督はもちろんのこと、多くのクラブスタッフの尽力により津々浦々のJクラブが発展してきた。

ここでスポットを当てるのは、1996年ベルマーレ平塚(2000年に湘南ベルマーレに改名)に入社し、現在もJ1湘南ベルマーレの広報として活躍する遠藤さちえ氏。Jリーグの歴史と共に遠藤氏が何を大切にし、ベルマーレに関わる全ての人々と接してきたのか。また、同氏が考えるJクラブとファンの理想の関係性とは。これらについて存分に語ってもらった。

ここでは、インタビューの前編を紹介する(インタビュアー:今﨑新也)。


写真:Getty Images

「マネージャーとしての活動がとても楽しくて」

ー高校生時代に、サッカー部のマネージャーを務めた遠藤さん。幼い頃から、縁の下の力持ちとして周りの人をサポートするのが好きだったのでしょうか?

遠藤氏:スポーツ自体はすごく好きでした。運動音痴でやるのは苦手だったのですが、スポーツに関わったり応援したりというのは好きで。中学生時代はテニス部に入っていたんですけど、すごく下手だったんです(笑)。3年生になってもボール拾いが好きでしたね。普通は1年生や2年生がやるようなことを、3年生になっても好きなこととして続けられた。スポーツの側(そば)にはいたいけど、自分が(選手として)やるよりも、その周辺にいてサポートをするほうが好きなんだと気づきました。高校に入ったら、どこかの部活でマネージャーをやろうと思ったのがきっかけですね。

ー数あるスポーツから、サッカーに惹かれた理由は何ですか?

遠藤氏:兄がサッカーをやっていたので。私自身は全くプレー経験が無いんですけど、幼い頃からサッカーは身近にありましたね。

ー高校生や短大生ながらに感じていた、Jクラブで働くことの魅力を教えて下さい。

遠藤氏:高校1年生の頃あたりの、サッカー部のマネージャーとしての活動がとても楽しくて。学校に行くのが楽しみな毎日、3年間でしたね。強いサッカー部ではありませんでしたが、選手たちが懸命にやる姿を間近で見て、少しでもサポートしたいなと。その延長線上として、Jリーグのクラブで働きたいと思い始めました。高校の部活のマネージャーとプロのそれは違うと思うけど、これを仕事にするという自分の夢を叶えたいと思うようになりました。

でも、どんな仕事があるのか当時は情報がありませんでした。どんな仕事か(ある程度)想像はついても、フロントスタッフがどういう職種なのか、それ以外にどんな業種があるのかが全然分からず。何も知らなかったです。どうすればなれるのか、なるために何が必要なのかも。

ーそんな状況や心境のなかで遠藤さんが目にしたのが、雑誌『ストライカー』でしたね。

遠藤氏:そうです! めっちゃ懐かしい(笑)。先輩の家で読んでいたら「こんな(サッカーの)仕事してます」みたいなコーナーに、当時鹿島アントラーズにいらした高島雄大さん(現アスルクラロ沼津代表取締役社長)の記事が載っていて。何を思ったのか、高島さんに手紙を書きました。厚かましくも「お返事頂きたい」という手紙を返信用封筒を添えてお送りしました(笑)。

そのときの私は、短大への入学が決まっていました。Jクラブで働くために、その2年間でどんな勉強をし、何を学べば良いのか。(手紙に書いたのは)それを教えて下さいという内容でしたね。

ー実社会に出るための準備を、2年でしなければならない。大変でしたね。

遠藤氏:そうそう。短大生の就職活動は、入学してすぐに始まりますからね。私はできることなら高卒で働きたいぐらいの感じでしたが(笑)。


中田英寿(1995-1998、ベルマーレ所属)写真:Getty Images

ベルマーレとの出会い

ーそんな中、なぜベルマーレに惚れ込んだのでしょう?

遠藤氏:実を言うとJリーグのクラブであればどこでも良かったんです(笑)。全クラブに履歴書を送り、連絡もしました。「今から(日本の)北から順に俺の知っている人の名前と所属チームを言うから、メモして。電話番号は自分で調べてね。僕の名前を出してもいいから」と、高島さんが仰って下さって。このなかで実際に会って下さったのが3クラブほどで、そのうちのひとつがベルマーレ平塚であり上田栄治さんでした。

ただ、上田さんからは「人は足りているから、(現状ベルマーレへの入社は)無理だよ」とはっきり言われて。でも、ベルマーレの施設を見せて下さったり、グラウンドを案内して下さったりと、「少しでも何かを経験させてあげよう」と思ってくださったのかもしれません。上田さんのこうした優しさに甘えて、私はしつこく連絡しましたね(笑)。お会いできたクラブが他にもあったのですが、もちろん(入社は)断られて。なんとしてもベルマーレで働きたいと思ったのは、上田さんにお会いしてからですね。

ーそして短大をご卒業される1996年の2月に、確か上田さんから「ポルトガル語できる?」というお電話があったんでしたよね。外国籍選手やその家族のお世話をするスタッフが、ベルマーレに必要になったと。

遠藤氏:そうです。お電話を頂いたとき、(ポルトガル語を喋れますと)嘘をついてはいけないと思ったのは、すごく覚えています。でも「喋れません」と答えたらこの話(入社の話)は終わっちゃうなと。なので「絶対喋れるようになります」と答えました。上田さん、笑っていましたね。でも、私のこの答えで上田さんも「逆にこっちも断れないな」という気持ちになったのかも(笑)。

96年にベルマーレがブラジル人監督(トニーニョ・モウラ氏)を招聘したんです。外国籍のコーチや選手が増えて、急に7家族くらい来日することになって。これは通訳一人では手に負えないよね、誰かいないかという話になって、多分私のことを思い出して下さったんだと。

ーポルトガル語はどのようにお勉強されたのですか?

遠藤氏:辞書を片手に(来日された)選手やスタッフの家族と喋りながらその都度覚えましたね。上田さんからは、「彼らは日本に来て何もわからなくて、きっと寂しい思いをしているだろう。言葉がわからなくても、彼らに会いに行って何か話してあげてね」と。入社してすぐに(語学)学校に通い始めたのですが、すぐに忙しくなって通う時間がなくなってしまいました。単語の羅列であっても、家族と喋ったほうが覚えられるという感じでしたね。

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名前:今﨑新也
趣味:ピッツェリア巡り(ピッツァ・ナポレターナ大好き)
好きなチーム:イタリア代表
2015年に『サッカーキング』主催のフリーペーパー制作企画(短期講座)を受講。2016年10月以降はニュースサイト『theWORLD』での記事執筆、Jリーグの現地取材など、サッカーライターや編集者として実績を積む。少年時代に憧れた選手は、ドラガン・ストイコビッチと中田英寿。

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