Jリーグ アビスパ福岡

アビスパ福岡、J1通算100勝400得点間近!知っておくべきクラブ史

写真:Getty Images

2023明治安田生命J1リーグで奮闘を続け、5月28日の第15節終了時点で10位につけるアビスパ福岡。

1996年にJリーグへ参入した福岡は、1つの節目であるJ1リーグ通算100勝、さらに通算400得点達成まで共にあと「1」と迫っている。ここでは、紆余曲折あったアビスパ福岡の歴史を振り返る。


アビスパ福岡 ベスト電器スタジアム 写真:Getty Images

Jリーグ参入まで

今年30周年を迎えたJリーグは1993年にスタート。通称「オリジナル10」と呼ばれる初年度の10クラブの中に九州勢はなく、最も西のクラブは広島県に本拠地を置くサンフレッチェ広島だった。日本列島がJリーグブームに沸くさなか、九州の多くの人たちにとってはテレビの中の出来事。なかば蚊帳の外だった。

そんななか1993年に、福岡青年会議所や福岡県サッカー協会を中心として「福岡にサッカーチームを」という誘致活動が起こる。ブームの後押しもあり、あっという間に約50万人の署名が集まった。さらに1995年に福岡で開催された大学生のオリンピック「ユニバーシアード」の会場として博多の森球技場(現ベスト電器スタジアム)が建設され、Jリーグの基準を満たすハード面は整っていく。

一方「Jリーグ準会員」となったものの基準を満たすスタジアムがなく、短期間でのJリーグ参入は難しい状況のクラブがあった。静岡県藤枝市に本拠地を置いていた、中央防犯サッカー部を前身とする中央防犯FC藤枝ブルックスである。Jクラブが欲しい福岡と、Jリーグに参入したい藤枝ブルックス。両者の思惑が重なり、クラブは1995シーズン福岡市へ移転。福岡ブルックスに改名し、JFLで24勝6敗の成績を残し優勝。1シーズンで駆け抜けてJリーグ参入を達成し、参入と同時にアビスパ福岡に改称した。


Jリーグ旗 写真:Getty Images

下位が定位置だった90年代

ただ、日本サッカー最高峰のJリーグはやはりレベルが高かった。1年目の1996年から15位(16チーム中)、最下位(17チーム中)、最下位(18位チーム中)、14位(16チーム中)と4年続けて下位の常連だった福岡。当時小学生だった筆者は「勝てないのが当たり前、勝てたらラッキー」という感覚でスタジアムに通っていたものだ。

1998年の最下位時にはJ1参入決定戦へ。これは1999年をJ1リーグ、もしくはこの年からスタートするJ2リーグ、どちらで迎えるかを賭けたトーナメントである。初戦で川崎フロンターレ(当時JFL)と対戦した福岡は、のちに日本代表にも選出されるFW山下芳輝の後半ロスタイム弾で追い付き、延長戦で勝利。「神を見た夜」と呼ばれ、現在でも語られる伝説の一戦となっている。

この時はなんとかJ1に踏みとどまり、その後もギリギリでの残留を繰り返したことで、受験生に「落ちないグッズ」が売れるという経験もした。明け透けに言えば、紙一重でJ1にいるクラブだった。


MFダビド・ビスコンティ(左)横浜マリノス所属時 写真:Getty Images

今でも語り草の2000年2ndステージ

そんな当時の福岡が唯一ともいうべき躍進を遂げたのが、ネストール・オマール・ピッコリ監督が就任した2000年のチームだ。当時のJリーグは2ステージ制で実施されており、1stステージは14位(16チーム中)。それでもキャンプからフィジカルトレーニングを重視し、徐々に「戦う集団」へと変貌を遂げ、2ndステージに花開く。

当時J1で2強と言われた、鹿島アントラーズに引き分け、ジュビロ磐田には勝利した福岡。終盤まで優勝争いに絡んでみせたのだ。最後に3連敗と息切れして2ndステージ6位で終えたものの、20年以上経った今もなおサポーターに語られるチームであった。新加入の高卒ルーキーDF平島崇、MFダビド・ビスコンティらが活躍した。

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名前椎葉 洋平
趣味:サッカー観戦、読書、音楽鑑賞
好きなチーム:アビスパ福岡、Jリーグ全般、日本のサッカークラブ全般

福岡の地から日本サッカー界を少しでも盛り上げられるよう、真摯に精一杯頑張ります。

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