
カンプ・デ・レス・コルツ(1922-1960s)
所在地:スペイン、バルセロナ(バルセロナが使用)
現在、建て替え工事中のバルセロナのホームスタジアム「カンプ・ノウ」は、日本最大手の設計会社「日建設計」がコンペに当選し、設計に携わったことでも話題となった。しかし肝心の工期は延びに延び、当初2024/25シーズン途中から使用できるはずだったが、2026/27シーズン開幕に間に合うかも微妙な状況となっている。
カタルーニャ人にとっては“聖地”とされている新カンプ・ノウが完成すれば、収容人数10万5,000人を誇る巨大スタジアムとなるが、それまでバルセロナは1992年バルセロナ五輪のメイン会場で、一時期エスパニョール(1996-2009)もホームとしていた、収容人員60,713人の「エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス」を使用している。
そんなカンプ・ノウ以前のバルセロナのホームとして使用されていたのが、カンプ・デ・レス・コルツだ。現在カンプ・ノウがあるラス・コルツ区に、わずか3か月という工期で建設され1922年に開場。当初の収容人員は25,000人だったが、拡張工事を繰り返し、その規模を60,000人にまで増やした。
時はまだ軍事政権によるカタルーニャ弾圧が激しかった時代。スペイン国歌が流れれば、観衆は指笛とブーイングでそれをかき消し、政府側も報復措置としてレス・コルツの3か月使用禁止を通告した。さらに1936年にスペイン内戦が始まると、フランコ政権は、バルセロナ会長のジュゼップ・スニュル氏を暗殺。クラブ名もスペイン語の「クルブ・デ・フトボル・バルセロナ」とされ、エンブレムすらスペイン国旗に近いものに修正された。
迫害を受け続けたバルセロナだったが、チームは奮闘を続け、1950年代には国内で敵なしの強さを誇るようになる。そして、レス・コルツの収容人数ですら手狭になり、1957年、収容人数93,053人を誇るカンプ・ノウが竣工されたのだ。この数字は今でも欧州最大だ。
カンプ・ノウ建設費用捻出のため、レス・コルツは土地ごと売却され、解体された。その跡地には住宅街と児童公園が建てられているという。

エスタディオ・ビセンテ・カルデロン(1966-2017)
所在地:スペイン、マドリード(アトレティコ・マドリードが使用)
スペイン3強の1つ、アトレティコ・マドリードのホームスタジアムとして1966年に開場したエスタディオ・ビセンテ・カルデロン。1982年W杯スペイン大会の1つにも選ばれただけではなく、サッカー以外にも、マイケル・ジャクソンやピンク・フロイドといった大物アーティストのスタジアムライブも開催された。
収容人数は54,907人。アトレティコが2部に降格した2000/01シーズンでの開幕戦で、超満員のサポーターが出迎えイレブンの背中を押した出来事は、サポーターのクラブ愛の強さを物語っている。
ビセンテ・カルデロン会長在任中(1964-1980、1982-1986)黄金期を過ごし、同氏の名が冠されている本スタジアム。メインスタンドの下に高速道路が通るという珍しい設計だったが、UEFAスタジアムカテゴリーでは最高評価の「カテゴリー4」を得ていた。
2017年に、アトレティコが選手とサポーターの思いが詰まったこのスタジアムを去った要因は、老朽化だけではない。
2020年五輪招致で東京とイスタンブールが立候補する中、マドリードは本命視されながら、2013年のIOC(国際オリンピック委員会)総会での1度目の投票でイスタンブールに敗れ、結局、開催地は東京に決定。マドリードは2012年大会、2016年大会に続く“3連敗”で、これを最後に五輪招致から手を引くことになる。
これにより元々「ラ・ペイネタ」という陸上競技場があったメイン会場の建設予定地がポッカリと空いてしまった。そのため当時のマドリード市長と、アトレティコのエンリケ・セレソ会長が新スタジアム建設計画に同意し、2016年、ラ・ペイネタを取り壊した上で、収容人数68,456人の新スタジアム「エスタディオ・メトロポリターノ」が建設され、2017年から使用が開始されたのだ。
五輪招致に失敗したことで新スタジアムからは陸上トラックも排除され、アトレティコのディエゴ・シメオネ監督も「圧力鍋」に例えるような熱狂空間とすることに成功。チームも期待に応え、2020/21シーズンには本拠地移転後リーグ初優勝をもたらす。ちなみに、新スタジアムの屋根を設置したのは日本企業の太陽工業だ。
ビセンテ・カルデロンはその役割を終えた後、映画やドラマのロケ地としても使用され、2019年から解体が始まり、2020年までに完全に取り壊された。現在、跡地には住宅地や、さらに「アトレティコ・マドリード公園」が新設され、市民の憩いの場となっている。

メイン・ロード(1923-2003)
所在地:イギリス、マンチェスター(マンチェスター・シティ、マンチェスター・ユナイテッドが使用)
今や同地区のビッグクラブ、マンチェスター・ユナイテッドの存在感を超えてしまった感のあるマンチェスター・シティ。しかし、総タイトル数はユナイテッドの半分以下であり、これを超えるためには、今のチーム力を維持できたとしても数十年かかるだろう。
20世紀までは、シティはユナイテッドに次ぐ“マンチェスター第2のクラブ”という位置付けだった。飛躍のきっかけとなった出来事が、2004年の新スタジアム「エティハド・スタジアム(竣工当時は「シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム」)」への移転だ。
そんなシティがホームスタジアムとしてきたメイン・ロードは、それまでの「ハイド・ロード」が火災で焼失したために1922年に建設され、1923年開業。建設費は当時としては巨額の約10万ポンド、初期の収容人数は約80,000人で、「ウェンブリー・スタジアム」に次ぐ国内2番目の規模で「北のウェンブリー」と呼ばれていた。
マンチェスター市中心部からも近く、ファン層の中心を構成する労働者階級の住宅街にあったことでサポーターからも親しまれていた。収容人数は、1935年頃の最盛期には約88,000人にまで増えたが、安全面や全座席化により、2003年の閉鎖時には35,150人にまで縮小している。
1934年3月3日、FAカップ6回戦のストーク・シティ戦では84,569人の観客を記録。これはイングランドのスタジアムでの最高記録だ(FAカップ決勝を除く)。
また、第2次大戦中、ユナイテッドの本拠地「オールド・トラフォード」が被害を受けたため、1945年から1949年までユナイテッドとシティがメイン・ロードを共用していた時期もある。その間、ユナイテッドは年間5,000ポンドと入場料の一部をシティに支払っていた。
さらには、シティのファンを公言するイギリスのロックバンド、オアシスが、1996年にメイン・ロードで公演を行い、“伝説のライブ”と語り草となっている。
メイン・ロードは、2003年11月から解体が始まり、2004年に完了。跡地は「メイン・プレイス」として、300戸の住宅地に再開発された。スタジアムのセンターサークルは記念として保存され、「ブルー・ムーン・ウェイ」と名付けられた青い道路が敷かれ、その記憶は生き続けている。
新スタ建設に沸くJリーグだが、それまで使用していた旧ホームスタジアムをも愛し、思いを馳せるサポーターはどれだけいるだろうか。このあたりに、100年以上の歴史を持つ欧州クラブと、30年あまりの歴史しかないJリーグとの差が垣間見えると言えるのではないだろうか。
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