
4度のJ1優勝(2017、2018、2020、2021シーズン)に貢献し、MVP・得点王1回(2017シーズン)、ベストイレブン2回(2016、2017シーズン)に輝き、日本代表としても国際Aマッチ14試合2得点の実績を誇る川崎フロンターレのFW小林悠が、39歳の誕生日である2026年9月23日に記者会見を開き、2027年1月1日をもって現役を引退することを発表した。
小林は拓殖大学から2010年に川崎入りし、翌2011シーズンから背番号11を背負い続けた。強力な外国人FWとの競争の中で控えに回る時期もあったが、自分の役割を果たし続け、2025年4月には「J1リーグにおける途中出場選手の最多得点数(記録達成時点で29得点)」がギネス世界記録に認定された。他クラブから川崎での年俸を超えるオファーもあったというが、先輩の中村憲剛氏(2020年引退)と同じく「川崎一筋」を貫いた。
移籍が日常化した現代のサッカー界では、1つのクラブで長くプレーし続ける選手は珍しくなった。プロ入り後に他クラブへの完全移籍も期限付き移籍もせず、1クラブで選手生活を送る選手は「ワンクラブマン」と呼ばれ、サポーターから特別な愛情を注がれる存在だ。
ここでは、現役・引退を問わず、1クラブで長くプレーした選手たちをランキング形式で紹介する。ユース在籍期間は含めず、トップチームとの正式契約年から数える(特別指定選手期間は除く)。クラブの前身名称は同一クラブとして扱う。
※順位は単純な年度の差ではなく、トップチームに在籍したシーズン数を優先。2026年の明治安田J1百年構想リーグは特別大会のためシーズン数に含めていない。同じシーズン数の場合、出場試合数(対象はJ1リーグ戦・J2リーグ戦・Jリーグ杯・天皇杯・ACL・FIFAクラブワールドカップ・JFLリーグ戦)で順位付けした。

1位:曽ヶ端準
鹿島アントラーズ一筋23年の守護神/1998–2020/23シーズン(引退)
GK曽ヶ端準は1998年に鹿島アントラーズユースからトップチームに昇格し、2020年まで鹿島一筋でプレーした。J1通算533試合出場は歴代上位に位置し、在籍23シーズンという記録を残した。2002年FIFAワールドカップ(W杯)日韓大会の日本代表メンバーにも選ばれ、クラブでは多くのタイトル獲得に貢献した。
2020年12月24日、鹿島は曽ヶ端の現役引退を発表。クラブを通じたコメントで曽ヶ端は「僕は鹿嶋で生まれ育ち、この街に鹿島アントラーズが誕生し、始まりは1人のサポーターでした。それがユースに入り、プロになり、1つのクラブでここまで長くプレーできるとは想像もしていませんでした」と振り返っている。
鹿島の公式記録上もクラブ最多出場級の存在であり、地元出身者としてクラブと街に根を下ろしたキャリアだった。

2位:城後寿
アビスパ福岡の現役最長ワンクラブマン/2005–現在/22シーズン目(現役)
FW城後寿は、2005年に国見高校からアビスパ福岡へ加入して以来、福岡一筋でプレーを続けている。40歳にして2026/27シーズンで22シーズン目を迎えている。この間、アビスパは3度のJ2降格と4度のJ1昇格を経験している。おそらくは降格の度に他クラブからオファーもあったと思われるが、城後は故郷・福岡でのプレーを選んだ。
2026年6月に2026/27シーズンの契約更新が発表された。福岡県久留米市の出身で、将来の夢として「1日でも長くアビスパでプレーする事」を挙げている。現役最長のワンクラブマンとして、アビスパの歴史を体現する存在だ。現在、右膝の靱帯損傷からの公式戦復帰を目指しているが、サポーターはホームのベススタでそのプレーが見られる日を待ち望んでいる。

3位:青山敏弘
サンフレッチェ広島で21シーズンの中盤/2004–2024/21シーズン(引退)
MF青山敏弘は2004年から2024年までサンフレッチェ広島でプレーし、Jリーグでは最長クラスの21シーズン在籍となった。2015シーズンのJリーグMVPにも選ばれ、広島の中盤とタイトル獲得を支えた。J1通算443試合出場(20得点)を記録した。作陽高校時代、2002年の全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝での“世紀の大誤審”によって、自身の決勝ゴールが認められずに全国切符を逃したことで名前が知れ渡ったが、プロ入り後にその実力を十分に証明してみせた。
2024年10月20日に引退を発表し、「21年のキャリアの全てを広島でプレーさせていただいた事に、大きな誇りを感じております」とコメントした。現在はトップチームコーチとして、バルトシュ・ガウル監督を支えている。

4位:山田暢久
浦和レッズで20年を全うした万能選手/1994–2013/20シーズン(引退)
DF山田暢久は1994年に藤枝東高校から浦和レッズへ加入し、2013年の引退まで浦和一筋でプレーした。本職は右サイドバックだが、2004シーズン、ギド・ブッフバルト監督に見出され、MF山瀬功治が負傷した事情も重なりトップ下にコンバート。セカンドステージ優勝の原動力となった。浦和には20年間在籍し、J1通算501試合、J2通算39試合に出場。2013年には「同一クラブで20年目を迎えた日本人第1号」となった。
引退後、浦和の強化部スタッフを経て、現在は埼玉県幸手市を拠点とするリボーラフットボールクラブのジュニアユース監督やコーチを務めている山田氏。浦和での公式戦出場は実に725試合。フィールドプレーヤーとしては、どこのポジションでも器用にこなす万能さが長きにわたる現役生活を可能にした。
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