セリエA ローマ

中田英寿のイタリアの冒険(第2弾):ローマ時代【前編】

写真提供: ac-perugia.com

こんにちは。ダビデです。今日も私の知っている中田英寿を語り続けたいと思います。前回は中田がペルージャにいた頃の話を中心に書きました。よかったらご覧ください

ペルージャでの素晴らしい活躍のおかげで、中田はもっとレベルの高い舞台にステップアップができると証明した。彼が次に選んだクラブはローマだった。当時のローマはカペッロ監督の元で、イタリア国内だけではなく、ヨーロッパにも強いチームとして高く評価されていた。

ローマの最初のシーズンに中田はスターティングメンバーとして試合に出る機会があまりなかった。しかし、途中出場した時に彼はチャンスを見逃さずにアピールできるクオリティーの高いプレーをしていた。シーズンを通して15回試合に出場し、3得点を決めた。以上にポジティブな結果であった。

中田が見せたのは数字だけではない。スタメン争いのあるローマのようなビッグクラブにもプレッシャーに潰れずに自分のプレーができていたことは1番の結果だと私が思う。

しかし、中田自身が良い結果を出したとしても、周りの人がローマに期待していたことはもっと高い目標だった。カペッロのような有名な指導者もいて、レベルの高い選手も揃っていた。サポーターが期待し始めたのはセリエA優勝、そしてヨーロッパでのいい活躍…

写真提供: asroma.com

次の2000/2001年シーズンは中田にとって精神的に難しいシーズンだった。パーフォーマンスの面では特に問題なかった。中田はいつものように必要とされていた時にいい結果を出していた。

しかし、パーフォーマンスが良かったからこそ、スタメンで使われないことを疑問に思って辛くなり始めた。さらに、カペッロは彼をトップ下やハーフウイングなど、複数のポジションで彼を使っていた。カペッロ監督は中田をクオリティーの高い選手と認めていたからそんな風に中田を使っていただろうが、選手の立場を考えたら、出場する度にポジションが変えられるのは混乱になることです。

トッティの交代選手として使われていたことが多かった中田…メディアも彼のこと「第2チョイス」として取り上げられていた上で、トッティと関係が悪いという話も流していた。しかし、それはたったの噂だった。中田とトッティの関係は全く悪くなかったし、サポーターも中田のこと認めていて、愛していた。

クラブとのコミュニケーションに関しては同じことは言い切れない。中田がトッティよりいい活躍を見せていても、次の試合にはまた途中出場させられたり、使われなかったりした日々が続いていた。それの理由は中田に説明されていなかったと当時イタリアのメディアに書かれていた。

それでも、中田は迷わずにやるべきなことをいつも通りやっていた。1月の移籍期間中に彼をスタメンとして使いたい複数のチームからオファーが来ていたが、彼はローマに残ることを決意した。中田はブレずに自分のチャンスがやってくると信じていた。

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シーズンの半分が過ぎていた頃、ローマはリーグをリードしていた。その後ろにはユベントス、そして前のシーズンの優勝チームであったラツィオがローマを追っていた。2000年のクリスマス3日前にシーズンの流れを変えれる試合、ローマVSユヴェントスが行われていたが、0-0のドローに終わった。

シーズンの後半にもローマは1位の座を守り続いていた。優勝争いにとても重要な直接対戦が2つ残っていた。それはラツィオ戦とユヴェントス戦であった。ローマがその2戦を負けた場合、リーグの上位ランキングが大きく変わって、優勝できなくなる可能性もあった。

4月29日にローマダービー、ローマ対ラツィオが行われた。ローマは試合を2-0リードして、セリエA優勝を一歩近づいていたと思ったところ、ラツィオは2点入れてローマに追いついた。試合は2対2で終わり、その次の週のローマ対ユヴェントスの一戦はランキングをひっくり返すほどの一戦となった。そのユヴェントスとの一戦は中田英寿の1番の輝きとなる…(つづく)

名前Uccheddu Davide(ウッケッドゥ・ダビデ)
国籍:イタリア
趣味:サッカー、アニメ、ボウリング、囲碁
好きなチーム:ACミラン、北海道コンサドーレ札幌、アビスパ福岡

14年前に来日したイタリア人です。フットボール・トライブ設立メンバーの1人。6歳の時に初めてミランの練習に連れて行ってもらい、マルディーニ、バレージ、コスタクルタに会ってからミランのサポーターに。アビスパ福岡でファビオ・ペッキア監督の通訳も務めた経験があります。

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