Jリーグ

横浜FMが厳格対応。ダービーはいつから“ケンカの場”になったのか

横浜FC VS 横浜F・マリノス 写真:Getty Images

横浜F・マリノスは、7月5日に行われたJ1リーグ第23節・横浜FC戦(ニッパツ三ツ沢球技場)において、一部のサポーターが「発煙筒や花火の使用」「覆面による顔の隠蔽」「横浜FCサポーターへの挑発」「警備スタッフの制止を振り切ってアウェイグッズ規制エリアへ侵入する」など、複数の禁止行為を行ったことを受け、当該行為に関与した59人(後に69人へ訂正)に対し無期限入場禁止処分を科した。また、関係する4つのサポーター団体についても無期限活動禁止処分としている。

横浜FMは11日に公式サイトにて「改めて、公園を利用されていたすべての皆さま、スタジアムへご来場のお客さま、横浜FCの皆さま、そしてサッカーを愛する多くの皆さまに対し、多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」と謝罪コメントを発表。再発防止策として、20日に行われた第24節・名古屋グランパス戦(日産スタジアム/3-0)において、横断幕の掲出や鳴り物を含む楽器類の持ち込み、自作の旗やゲートフラッグの使用を禁止し、応援に使用できるのはクラブ公式グッズの旗のみとする厳格な運用を行った。

結果、20日の日産スタジアムは、アウェイの名古屋のサポーターのチャントが大きく響くという異様な雰囲気となった。この処分は「当面の間」とされ、以降のホームゲームでも続けられる見込みだ。

また、同5日に開催されたセレッソ大阪対ガンバ大阪の「大阪ダービー」(ヨドコウ桜スタジアム/0-1)でも、G大阪の一部サポーターが、柵を蹴り飛ばしながら行進する様子を映した動画がネット上で拡散。「禁止行為」としてスタッフが制止に入ったことで、その観戦マナーを巡って批判の的となった。

ここでは、Jリーグにおけるダービーマッチやライバル対決が、いつ、どのようにして単なる熱狂的な応援を超え、もはや“ケンカ”と揶揄されるほどの過激な対立へと変質していったのか。その歴史的変遷と背景、さらには「サポーター劣化説」の真偽を紐解いていきたい。


横浜フリューゲルス VS 横浜マリノス 写真:Getty Images

ダービーマッチの定義とは

そもそもダービーマッチは、世界中に広まっているサッカー特有の文化で、リーグ戦を盛り上げる重要な要素の1つだ。特に同一都市や地域に所在するクラブ同士の対戦は、単なる試合以上の意味を持つ。

こうした文化はイングランド発祥だが国によってその背景は様々で、イタリアでは都市国家時代の名残、スペインでは民族対立、スコットランドでは宗教、南米(ブラジル・アルゼンチン)では階級・所得格差、旧共産圏では政治的イデオロギーといった社会的背景を抱えている。

イングランドでは20世紀中盤以降、特に1960年代から70年代にかけて、サポーター同士の暴徒化=“フーリガニズム”が深刻化し、社会問題化した。フーリガニズムの現象は欧州全体にも波及し、多数の犠牲者を出す悲劇を生んだ。そのたびに罰則や規制が導入されたが、現在でもダービーマッチなどでのサポーター同士の衝突は一部地域で続いている。

Jリーグにおけるダービーは、主に地域的な近接性やファン文化に基づいており、イングランド型の「地域対抗」に近い性質を持っている。

Jリーグ創設時の1993年、横浜から横浜マリノスと横浜フリューゲルスが選出された背景には、地域密着の理念やスタジアム整備の状況、企業スポンサーの支援などが考慮された。ヤマハ発動機(後のジュビロ磐田)やヤンマー(後のセレッソ大阪)、日立製作所(後の柏レイソル)、フジタ工業(後の湘南ベルマーレ)なども候補に挙がったが、初期のJリーグは10クラブに絞られ、横浜の2クラブが選ばれたことで、ダービーマッチの文化を日本に根付かせる土壌が形成された。ちなみに、フリューゲルスは創設初期に町田市も活動エリアの候補に含めていたが、スタジアム整備などの面から最終的に横浜を本拠地としたとされる。

この試みは大成功を収めた。両チームのホームであった三ツ沢競技場でのダービーは常に超満員であった。1998年3月21日に新設された横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)で開催されたJリーグ初試合(フリューゲルスが2-1で勝利)も満員札止めに。1999年1月の天皇杯優勝を最後にフリューゲルスがマリノスと合併するまで、両クラブはリーグ戦でほぼ互角の10勝10敗という理想的なダービーマッチを展開した。

それから四半世紀以上が経過し、Jリーグは60クラブを超えるまでに拡大。全国各地に多様なダービーマッチが生まれている。多くは後発クラブ同士によるローカルで平和な対戦であるが、横浜FMやガンバ大阪など歴史あるクラブは、時に揉め事の中心となることもある。

2025年現在、J1リーグでは「横浜ダービー(横浜F・マリノス vs 横浜FC)」「大阪ダービー(セレッソ大阪 vs ガンバ大阪)」「神奈川ダービー(川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、横浜FMなど)」「東京ダービー(FC東京 vs 東京ヴェルディ)」があり、J2では「静岡ダービー(ジュビロ磐田 vs 藤枝MYFC)」「愛媛ダービー(愛媛FC vs FC今治)」、J3では「信州ダービー(長野パルセイロ vs 松本山雅)」、そしてJ3所属の栃木シティと栃木SCによる「栃木ダービー」も注目カードとなっている。


サッカーボール 写真:Getty Images

健全なライバル関係の時代(1993~1990年代後半)

Jリーグの理念の根幹にあったのは、企業名を廃し地域名を冠することで地元に根差す「地域密着」である。この理念は、サポーター文化の黎明期においてポジティブに機能した。当時のダービーマッチは、敵対心よりも「おらが町のクラブ」を応援する郷土愛や、新たに誕生したプロサッカーリーグを共に創り上げていくワクワク感が勝っていたと言える。

マリノスとフリューゲルスの横浜ダービーも、Jリーグの成長を可視化できる重要な一戦であった。家族や友人とスタジアムに足を運び、純粋に試合の勝敗に一喜一憂する。そこには、現在のダービーに見られるような殺伐とした雰囲気は希薄であった。サポーターはまだ現在ほど組織化されていなかったため、集団的な対立構造が生まれにくかったという側面もある。その根幹には、Jリーグという新しい文化を共に育てようというクラブの垣根を越えた一体感が存在したからである。Jリーグが掲げた理念と、ファン・サポーターがそれを受け入れた上で牧歌的なスタジアムの雰囲気を創出させていたことも大きい。


浦和レッズ サポーター 写真:Getty Images

熱狂と変質(1990年代末~2000年代初頭)

ダービーマッチの様相が変化し始めるのは、1990年代末から2000年代初頭にかけてだ。この時期、Jリーグの人気は安定期に入り、各クラブのサポーターは単なるファンから、ゴール裏を中心に組織化された巨大な集団へと変貌を遂げていった。このサポーターの「組織化」と「巨大化」が、対立を先鋭化させる最初のターニングポイントとなる。

特に、浦和レッズのゴール裏が生み出す熱狂的な応援スタイルは、Jリーグ全体に大きな影響を与えた。大旗が林立し、スタジアム全体が揺れるほどの声量で歌い続けるその姿は「世界基準の応援」として多くのメディアに取り上げられ、他クラブのサポーターも追随した。

1990年代後半からJリーグの覇権を争った清水エスパルスとジュビロ磐田による「静岡ダービー」もサポーターの変質の1つのきっかけを与えた。サッカー王国としてのプライドだけでなく、リーグ優勝という目標が懸かったことで、ライバル意識は健全な範囲を超え、敵対心へと変わっていった。横断幕による挑発や、試合後の小競り合いが見られるようになった。

なぜそうなったのか。それは、サポーター組織の巨大化が集団心理を増幅させ、「相手に負けたくない」という思いが、応援の統率や純粋な声援よりも、相手を威嚇・圧倒することにプライオリティを置く一部のグループを生み出してしまったからだ。しかしその後、磐田は毎シーズンのように優勝争いする常勝軍団となる一方、清水は長い低迷期を迎え、皮肉にもその実力差ゆえに、サポーター同士の対立も次第に落ち着いていったと考えられる。

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名前:寺島武志

趣味:サッカー観戦(Jリーグ、欧州5大リーグ、欧州CL・EL)、映画鑑賞、ドラマ考察、野球観戦(巨人ファン、高校野球、東京六大学野球)、サッカー観戦を伴う旅行、スポーツバー巡り、競馬
好きなチーム:Jリーグでは清水エスパルス、福島ユナイテッドFC、欧州では「銀河系軍団(ロス・ガラクティコス)」と呼ばれた2000-06頃のレアルマドリード、当時37歳のカルロ・アンチェロッティを新監督に迎え、エンリコ・キエーザ、エルナン・クレスポ、リリアン・テュラム、ジャンフランコ・ゾラ、ファビオ・カンナヴァーロ、ジャンルイジ・ブッフォンらを擁した1996-97のパルマ

新卒で、UFO・宇宙人・ネッシー・カッパが1面を飾る某スポーツ新聞社に入社し、約24年在籍。その間、池袋コミュニティ・カレッジ主催の「後藤健生のサッカーライター養成講座」を受講。独立後は、映画・ドラマのレビューサイトなど、数社で執筆。
1993年のクラブ創設時からの清水エスパルスサポーター。1995年2月、サンプドリアvsユベントスを生観戦し、欧州サッカーにもハマる。以降、毎年渡欧し、訪れたスタジアムは50以上。ワールドカップは1998年フランス大会、2002年日韓大会、2018年ロシア大会、2022年カタール大会を現地観戦。2018年、2022年は日本代表のラウンド16敗退を見届け、未だ日本代表がワールドカップで勝った試合をこの目で見たこと無し。
“サッカーは究極のエンタメ”を信条に、清濁併せ吞む気概も持ちつつ、読者の皆様の関心に応える記事をお届けしていきたいと考えております。

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