
J1清水エスパルスで背番号「10」を背負い5シーズン在籍したFWカルリーニョス・ジュニオが、今2025シーズン開幕前日の2月14日に電撃移籍したJ2ジェフユナイテッド市原・千葉で、5試合3得点(第9節終了時点)の活躍を見せている。
また、2023シーズンまでの3シーズン清水に在籍し、2022シーズンにはチームがJ2降格した一方14ゴールを挙げJ1得点王に輝いたFWチアゴ・サンタナは、2024シーズン浦和レッズに移籍し12得点を挙げ、今季も開幕戦から第9節までスタメン出場を続け、3得点を記録している。
彼らはブラジル人選手ながら、欧州経由で清水入りした外国籍選手だが、Jリーグにもすぐに対応し成功を収めた選手だ。
一方で、清水を足掛かりに他クラブへ”ステップアップ”し、成功を手にした外国籍選手も数多くいる。ここではそんな選手にスポットを当て、なぜ清水で活躍できなかったのか、なぜ他クラブで成功したのか、などについて検証したい。

アラウージョ(清水在籍:2004)
1997-2003シーズンにわたってブラジルリーグのゴイアスECで活躍し、1999年にはU-23ブラジル代表にも選出されたFWアラウージョ。初の海外挑戦の場にJリーグを選び、2004年、清水のユニフォームに袖を通した。
この報を聞いた前年J1得点王のブラジル人FWウェズレイ(当時名古屋グランパス)は「あんな凄い選手がJリーグに!」と驚いたという。
しかし、2004シーズンから名古屋に就任したアントニーニョ監督(2021年死去)は、ファーストステージ11位という結果しか残せずに辞任。アラウージョはチーム最多の8ゴールと独り気を吐くも、ヘッドコーチから昇格した後任の石崎信弘監督(現ヴァンラーレ八戸監督)は彼を“戦力外扱い”し、韓国U-23代表として、アテネ五輪で活躍したFWチョ・ジェジン(2011年引退)を好んで起用した。
しかし石崎監督の元で清水が披露するサッカーは、長身のチョ・ジェジン目掛けてロングボールを蹴り込むだけの退屈極まりないもので、セカンドステージも14位(年間14位)に終わり、最終節でJ1残留を決める有り様だった。地元紙の静岡新聞に「石崎監督続投」を報じられると、サポーターは一斉に反発。同監督はホームゲーム最終戦後の挨拶も拒否し、逃げるようにクラブを後にした。
当のアラウージョには当然ながら、他のJ1クラブからのオファーが届く。そこから彼が選んだのは、西野朗監督が率い攻撃サッカーを展開していたガンバ大阪だ。背番号「9」を背負い、本来の決定力を存分に発揮し、33ゴールで得点王とMVPに輝き、G大阪をリーグ初優勝に導いた。
この活躍が認められ、2006シーズンには母国の名門クルゼイロ(2006-2007)、カタール・スターズリーグのアル・ガラファ(2007-2011)などを渡り歩き、特にアル・ガラファでは4シーズンで計101ゴールを記録した。
清水のスカウティングに狂いはなかったが、いかんせん当時の清水は、代表歴のあるMF澤登正朗、MF伊東輝悦、MF戸田和幸、DF斉藤俊秀、DF森岡隆三らがキャリアの晩年に差し掛かり、若手も思うように伸びてこない端境期にあった上、監督人事も失敗するなど、新入団の外国籍選手にとっては不憫な境遇だったといえるだろう。

安貞桓(清水在籍:2002-2003)
なぜ韓国サッカー界のアイドルだったFW安貞桓(アン・ジョンファン)が清水に来ることになったのか。それは、2002W杯日韓大会において韓国代表のエースとして出場した安貞桓が、後にバイロン・モレノ主審の不可解な判定などを含め、サッカー界の歴史に残る“一大スキャンダル”となった決勝トーナメント1回戦のイタリア代表戦で、ゴールデンゴールを決めたことが発端だ。
これに激怒したのが、当時安貞桓が所属していたセリエAペルージャのルチアーノ・ガウッチ会長(2020年死去)だった。元日本代表MF中田英寿の獲得を成功に導き、馬主としてもたった約65万円でトニービンを購入し、イタリア馬として27年ぶりとなる競馬界最高のG1レース・凱旋門賞制覇を成し遂げ、引退後は日本で種牡馬として9頭ものG1ホースを輩出するなど、“目利き”として知られる名物オーナーである。
ガウッチ会長は安貞桓を裏切り者呼ばわりし、即、契約を解除。元々、Kリーグ釜山アイコンズからのレンタル移籍だったため欧州クラブへの移籍を模索するが、W杯での活躍によって移籍金は跳ね上がり、オファーするクラブが現れなかった。そこで、パチンコメーカーのフィールズ株式会社の子会社のプロフェッショナル・マネージメント株式会社がペルージャと釜山双方に金銭を支払い、保有権を買い取る形で日本上陸を果たしたのだ。
清水では即、レギュラーポジションを奪取した安貞桓。ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァン杯)では2年連続4強に進出し、第1回ACL(AFCチャンピオンズリーグ)にも出場し3ゴールを記録(清水はグループリーグ敗退)。しかしリーグ戦では中位に留まり優勝戦線に絡むことはなかった。
そして1年半の所属後、2004シーズンに横浜F・マリノスへ完全移籍。終盤4試合で4試合連続ゴールするなど、2003シーズンに続くJ1連覇に大きく貢献した。
清水と横浜FMで通算97試合47ゴールという好成績を残し、欧州再挑戦に挑むが、リーグ・アンのFCメス(2005-2006)、ブンデスリーガのMSVデュースブルク(2006)ではともに2部降格の憂き目に遭い、Kリーグに復帰。キャリアの最後は中国スーパーリーグ、大連実徳(2009-2011)で過ごした。
タナボタ的に清水にやってきた安貞桓だったが、ゴール数以上にクラブの人気や知名度の面で大きく貢献した。アラウージョ同様、移籍先のクラブを優勝に導いたことで、清水在籍期間がJリーグ適応への“試運転期間”だったと割り切れば、その後の活躍ぶりも理解できよう。
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