Jリーグ FC岐阜

J3岐阜、川西翔太インタビュー【後編】古巣ガンバ大阪との対戦を目指して

西野朗監督 写真提供:Gettyimages

G大阪でデビュー以降の名将たちとの出会い

大阪体育大学では関西学生リーグ2部所属ながら総理大臣杯優勝を飾るなど大学サッカーで名を上げた川西は、大学の同級生であったDF藤春廣輝(元日本代表、現G大阪)と共に2011シーズンよりG大阪への加入を決断。当時のG大阪は、西野朗監督の下で攻撃サッカーを武器にJ1の強豪に位置しており、強力なFWを揃えていた。なぜ川西はそんな過酷な環境を選んだのだろうか。

「色んなチームに練習参加していた中で、ガンバには1番早い段階から声をかけてもらい、西野監督に推してもらっていたことが大きかったですね。あとは、練習参加した時に中学時代のトレセンで知り合っていた(下平)匠たちから『久しぶり~!』と声をかけてもらえたりもして、環境的にもやりやすかったです」

「ガンバではデビュー戦(2011年J1第7節広島戦)で初ゴールが獲れて幸先が良かったのですが、その後にすぐに発熱で欠場してしまいました。さらに、復帰して西野監督から『練習しなくてもいいから、ACLのアウェイ遠征の準備をしておけ』と言ってもらったのに、ぶり返してしまって…。それ以来、信頼を失って半年ほど干されたような時間が続きました。監督や強化部、マネージャーさんからも『体調管理もプロサッカー選手の仕事だから』と言われました。モンテディオ山形戦(第30節)で久しぶりに途中から試合に出て点が獲れて、アルビレックス新潟戦(第32節)でも途中出場から2点取れたので、尚更もったいないことをしていたなって思います」

そして2011年「さあ、これから」と思っていた矢先に、川西選手は腓骨々幹部骨折で長期離脱となり、チームは西野監督の退任、J2降格と色んなことが起きましたね。

「そうなんです、怪我では結局10カ月も休むことになりました。練習に復帰して1カ月くらいは練習試合でも45分間しかプレーできていなかったのですが、当時の松波正信監督(今季途中からG大阪監督に再就任)からは『時間限定でも使うから』と言っていただき、実際に使ってもらったので本当に感謝しています。今、また松波さんが監督をされているガンバとは、公式戦で戦いたいですね」

G大阪で3年間プレーした川西は、2014年に出場機会を求め当時J2の山形へレンタル移籍。加入当初は主力FWとしてプレーするも結果を残せず、次第に出番は減っていった。しかし2014シーズン終盤、チームが[4-2-3-1]から[3-4-2-1]へとシステムを変更するタイミングで、川西は2列目のシャドーに抜擢される。この年ラスト11試合で5ゴール2アシストと大爆発した川西の活躍により、山形はJ2で6位へと浮上。J1昇格プレーオフを勝ち上がり、クラブ史上2度目のJ1への切符を勝ち取った。同シーズン「第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会」でもクラブ史上初の決勝進出を果たしている。

「ガンバ時代の最後の年(2013年)に長谷川健太監督(現FC東京監督)のサッカーに合わせられなかった自分は、山形でもチームの環境や戦術になかなか合わせることができませんでした。周囲の選手のプレーに対してストレスを溜めることもありました。見かねた当時のチームメイトの山崎雅人さん(現大分トリニータU18コーチ)と高橋健二コーチ(現湘南ベルマーレコーチ)に『お前そんなんじゃこの先もダメだぞ』と言われ、それまでの自分は西野監督とガンバのサッカーに甘えていたのだと気付かされました。そこで変われて良い方向に出たと思います。でも、あの2014年のガンバとの天皇杯決勝は出たかったですよ(※)」

※2014年の天皇杯決勝では、J1優勝のG大阪がJ2で6位だった山形に3-1で勝利。G大阪はJ1リーグ、ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)、天皇杯の3冠を達成。川西はG大阪からのレンタル移籍だったため、契約により天皇杯決勝には出場できず。


ジュビロ磐田MF遠藤保仁(ガンバ大阪時代)写真提供:Gettyimages

2015年、川西は山形へ完全移籍。J2へ降格するも、2016年はボランチにコンバートされ、年間を通して主力としてプレーした。2017年からは大分トリニータへ移籍し、自身にとって3度目となるJ1昇格に貢献した。

G大阪時代にはJ1優勝経験のある西野監督や長谷川監督、山形ではJリーグ歴代最多指揮数(現在705試合)を更新し続ける石崎信弘監督(現カターレ富山監督)、大分ではチームをJ3からJ1昇格へ導き優秀監督賞を受賞した片野坂知宏監督、岐阜では独自の攻撃サッカーを構築する大木武監督(現ロアッソ熊本監督)など、数々の名将と呼ばれる指揮官の指導を受けてきている。

「結果的に独自の色を持つ良い監督ばかりに出会ってきたと思います。でも、自分のコミュニケーション能力の低さで人間関係を作っていくのが下手くそだったので、もったいないことをしてきました」

「それでも山形時代のイシさん(石崎監督)はこんな僕を受けれてくれました。ガンバでは西野さん(西野監督)や周囲の選手がやりやすい環境を作ってくれていました。大分のカタさん(片野坂監督)は、練習から100%でやらないと試合では絶対に使ってくれない厳しい監督です。それを常に見られてる感じもありますね」

「ガンバではヤットさん(元日本代表MF遠藤保仁、現ジュビロ磐田)がいて、フワフワしていながらもメチャメチャ巧かったですから。ガンバの練習の中では『こんな感じでいいんちゃう?』と自分の色を出して練習の意図とは少し違ったアクセントをそれぞれが加えるんですけど、その感覚を他のクラブに持ち込んでしまったら『は?何なん?そんなん出来ても意味ないし』となるんです。それだけ西野さんの時のガンバは特別だったと思います」

ページ 2 / 3