多くの選手が26歳前後で引退するJリーガー。引退後の生活は保証されておらず、苦労する選手も多い現実がある。これまで多くの元Jリーガーのセカンドキャリアに迫ってきた。
本記事では、1998年のFIFAワールドカップフランスでボールボーイをしたことがきっかけでサッカー選手を目指し、鹿島アントラーズ、ザスパクサツ群馬、ブラジルなどでプレーした藤田豊氏に話を伺う。【前編】では、幼少期から現役引退までのサッカーとの関わりについて。この【後編】では、22歳の若さにして現役引退した藤田氏の、サッカースクールや農業、スポーツ施設を作った想いや様々なビジネスを展開する実業家としてのセカンドキャリアを追う。
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選手時代とのギャップから職を転々。サッカースクール開校まで
ー22歳で現役引退後は、アパレルショップに就職されたとか?
藤田氏:はい。引退する時にザスパからはスタッフとしてのオファーや、鹿島からは下部組織のコーチのオファーをもらっていたのですが、プロサッカー選手として完全に燃え尽きてしまっていて「とにかくサッカーから離れたい」と思っていたんです。その他の話を含めてすべてお断りして、アパレルショップに就職する道を選びました。就職してからは仕事がいやだったわけではないのですが、サッカー選手に比べて精神的なプレッシャーもなく正直楽でした。このまま仕事を続けていると気が狂ってしまいそうで、3ヶ月で辞めてしまいました。
ーその後は上京し、保険会社に転職されたのですよね?
藤田氏:アパレルショップを辞めるくらいのタイミングで、母親がガンになってしまいました。現役時代には色んな人が応援してくれていたのですが、引退後に応援してくれたいたのは家族くらいで。そんな中で「もう1回母に希望を与えてあげたい」という思いが強くなりました。正直ビジョンは無かったのですが「東京に行けばなんとかなるんじゃないか」と上京しました。そして知り合いが保険関係の仕事をしていたこともあり、保険会社に就職したんです。
ーそこからどうやってサッカースクール開校に至るのですか?
藤田氏:保険会社で働きながらも、夜中にバーでアルバイトをしたり、休みの日にも色んなアルバイトをしていました。元々ビジネスや会社経営に興味があったので、とにかく色んな業界の仕組みを学びたいという思いで本当に多くのアルバイトを経験しました。そんな中で「やっぱりサッカーっていいな」と思い始め、知り合いにチラシを作ってもらいサッカースクールを開校しました。
ーそれはすぐに成功するのですか?
藤田氏:6000枚チラシを配って、1人が体験に参加してくれました。その子にずっと公園でサッカーを教えていたのですが、とにかく楽しくて今でもよく覚えています。昔自分がやっていた小中学校のサッカーを思い出しました。自分は昔から色んな練習ノートを書いていて練習メニューが頭に入っていたので、上手くさせてあげられました。自分の時代には厳しい指導が多い中で「とにかく褒めて伸ばしたい」と考えていました。本当に天職だと思います。
すると鹿島から「セカンドキャリアがテーマのテレビに出てみないか?」と連絡がありました。そんな時に母親が亡くなってしまったのですが、サッカースクール立ち上げたことを報告して喜んでもらいました。そしてNHKの勝村政信氏の『バッドヒューマン』という番組に出演し、それを見た出版社からサッカーのDVD販売の依頼をもらって、一気に生徒が集まったんです。
そこからどんどんスクールを拡大していったのですが、生徒を集めたり拡大することに集中しすぎて、一時を境に生徒が増えなくなってしまいました。よく考えるとビジネスの本質を知らず「ただお金儲けをしているだけ」に近い状態になっていることに気づきました。そこから、自分と同じマインドをもったコーチを育て、コーチの質を担保することにシフトしていきました。
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