多くの選手が26歳前後で引退するJリーガー。引退後の生活は保証されておらず、苦労する選手も多い現実がある。これまで多くの元Jリーガーのセカンドキャリアに迫ってきた。
本記事では、1998年のFIFAワールドカップフランスでボールボーイをしたことがきっかけでサッカー選手を目指し、鹿島アントラーズ、ザスパクサツ群馬、ブラジルなどでプレーした藤田豊氏に話を伺う。2005シーズンを最後に22歳で現役引退後、サッカースクールや農業、スポーツ施設などの様々なビジネスを手掛けるセカンドキャリアにまで迫る。
まずは同氏の幼少期から現役中のサッカーとの関わりについて詳しく聞いてみよう。
フランスW杯のボールボーイ経験で運命が変わる
ー本日はよろしくお願いいたします。まずはサッカーを始められたきっかけについて教えてください。
「兄がやっていたのがきっかけです。サッカーは茨城県通っていた小学校にあったチームで3年生の時に始めました」
ーやはり幼少期からエリートだったり、チームの中心だったのでしょうか?
藤田氏:当時、6年生の時にリフティングが9回しかできませんでした。また、6年生のチームメイトは1人だけで自分を合わせて2人の状況でした。僕は父親が陸上選手だったため、足が速くて背が高ったのですが、試合には5年生や4年生に助っ人として参加してもらって出場していました。
ーなるほど。中学校では、環境は変わりましたか?
藤田氏:中学に入学すると、サッカー部員は9人でした。ただ、僕と小学生時代から一緒だった選手を除いては、試合にしか来ないような幽霊部員に近い人たちでした。そんな中でも、それまではサッカーをしているだけで楽しかったのが中学1、2年生くらいから「試合で負けて悔しい」「もっと上手くなりたい」と思うようになりました。
ーその中学時代に、フランスワールドカップでボールボーイを経験されたとのことですが?
藤田氏:はい、中学1年生の時にフランスワールドカップが開催されることを知ったんです。中田英寿氏に憧れていたので「どうしても見たい」という願望がありました。チケットもお金もなかったのですが、たまたま友達の家で雑誌を読んでいたらアクエリアス(コカ・コーラ社)がフランスワールドカップのボールボーイを募集していて、家に帰ってたまたま置いてあったハガキで早速応募しました。
それから時間が過ぎ、2年生になってワールドカップ開催も迫る中で応募したのも忘れていたある日、アクエリアスから「ボールボーイに当選されました」と連絡がありました。フランスに出発の日には、成田空港に僕と同じように当選した人が30人集まっていました。北海道から沖縄まで日本全国から。興奮で、10時間以上かかる飛行機が本当にあっという間に感じましたね。
フランスには1週間滞在しましたが、ボールボーイができるのは1試合だけで、しかも前半か後半のどちらかだけでした。自分が担当したのはチリVSカメルーンの試合です。その時、生まれて初めてスタジアムのピッチに足を踏み入れてボールボーイとして7万人の大観衆の前で紹介され、全身が鳥肌でした。日本の試合はルール上、担当できませんでしたが、本当に忘れられない1週間でした。この時から「プロサッカー選手に絶対になる」と強く思うようになりました。
ーそれから高校進学時に鹿島アントラーズユースに入団されるまで、どういった経緯だったのですか?
藤田氏:フランスワールドカップにボールボーイとして行ってから別人のように変わりました。「プロになるためにどうすればいいか」を考えて、毎朝6時には学校に行って朝練をして、地元の社会人サッカーチームでも練習するようになりました。
まずはその数ヶ月後に鹿島アントラーズジュニアユースのセレクションがあって受験しましたが、結果は不合格でした。自分としては手応えはあったので監督に「不合格の理由を教えてください」と手紙を書くと「いいプレーはしているがまだ中学生で仮にジュニアユースに入れてもユースに上がれる保証がない。今着ているユニフォームの色は関係ないから頑張ってね」と返事がありました。
月日が流れて鹿島ユースのセレクションが夏にあり受けたのですが、手紙も書いて監督にも覚えてもらっているので「これは行けるんじゃないか」と思っていて自信はありました。1次セレクションで800人くらい来ていて、1人に与えられたのは5分のゲームが2本でした。そこでほとんどが落選したのですが、2次セレクションの25人に残ることができました。2次セレクションもその日のうちに行われ、面談も行われて2週間後に合格の連絡がありました。
鹿島ユースに合格できたのは、ボールボーイの経験やセレクションに不合格になった時に手紙を書いたりした結果だと思います。
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