著者:グエン・クオック・ビエト(翻訳者:マリオ・カワタ)
既にビジャレアルとアトレティコ・マドリードでのプレーによりヨーロッパ屈指のストライカーとして知られていたディエゴ・フォルランだが、そのキャリア最大の輝きを放ったのは2010年ワールドカップだった。元マンチェスター・ユナイテッドのFWは「ラ・セレステ(空色=ウルグアイ代表の愛称)」を準決勝に導き、ゴールデンボール賞(MVP)を受賞したのだ。
フットボールの血が流れるフォルラン家ではディエゴの父もウルグアイ代表でプレーしたほか、祖父は代表監督を務めているが、ディエゴが最初に熱中したスポーツはテニスだった。しかし12歳の時に転機が訪れる。ディエゴの姉アレハンドラが交通事故により恋人を失い、自身も体に麻痺を負ってしまったのだ。この時フォルラン家が費用を支払う手助けをしたのは、ディエゴ・マラドーナだった。
フォルランは経済的な困難に直面する家族の助けるべく、テニスの代わりにサッカーに打ち込むようになる。アレハンドラは当時を以下のように振り返っている。
「私が目覚めた時、ディエゴが最初に言ったのはサッカー選手になるということでした。たくさんお金を稼いで最高の医者を雇うと言ってくれたんです」
インデペンディエンテでプレーし南米で急速にその名前を知られるようになったフォルランは、2002年1月にマンチェスター・ユナイテッドへと旅立った。そしてその後に続くヨーロッパでの活躍は、ウルグアイのサッカーファンに多くの思い出を残すことになる。
イングランドでは成功を収められなかったが、フォルランはスペインの地で自身を再発見した。ビジャレアルとアトレティコ・マドリードでプレーする間、2005年と2009年にはヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞している。しかし彼が世界の大舞台で才能を存分に披露したのは、31歳の時だった。
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