
日本フットボールリーグ(JFL)は、J1リーグから数えて「4部相当」と位置づけられ、2位以上に入りJ3への昇格を目指すクラブの登竜門となる。長年、企業のサッカー部が上位に食い込み、J3昇格を狙うクラブの道を阻むこともあった。これらのクラブは、安定した資金基盤と選手層の厚さを武器に、JFLの競争力を高めてきた。
例えばHonda FCは、JFL創設の1999年以降9回の優勝を誇り、今2025シーズンも第22節終了時点で首位に立っている。しかしJ3入会ライセンスを持たないため、仮にこのまま優勝または2位に入ったとしても、J3の19位クラブは残留が決まる。現在J3で最下位のアスルクラロ沼津をはじめ、J3残留争いに関わるクラブは、JFLの順位や入れ替え条件も注視しながらシーズンを戦っていることだろう。
ここでは、Honda FCを筆頭に「JFLの番人」と呼ばれたクラブや、現在ではその役目を終え解散したクラブも含めた4チームを取り上げ、 それぞれの歴史とJリーグ昇格の壁となった事例を紹介する。

Honda FC(1971-)
半世紀以上の歴史をもつアマチュアの雄
Honda FC(本田技研工業フットボールクラブ)は、1971年に静岡県浜松市で本田技研工業の社内サッカー部として創部された。収容人数約2,500人の自前ホームスタジアム「Honda都田サッカー場」を持ち、地域密着を掲げて下部組織も運営している。JFLでは安定した成績を残し、天皇杯では毎回のようにJクラブを破ることで知られる。
1990年代初めにはJリーグ入りを目指し、埼玉県浦和市(当時)への移転が検討され、当時、ホンダルミノッソ狭山(2011年活動停止)と合併し「浦和ホンダウィンズ」という仮称が内々で囁かれていた。しかし、地元の浜松市から反発を受け断念した。
Jリーグ発足(1993年)後の1997年には「浜松F.C.」としてJリーグ準会員資格を取得したが、不況の影響と浜松市からの支援が得られなかったため白紙撤回となった。その結果、JFLに残ることになり、以降は昇格を目指す他クラブの壁としての存在感を示し続けている。
所属選手は、午前は社業、午後はトレーニングという一日を送っているという。元Jリーガー選手の場合、総務課付けとした上で、事実上のプロ選手も存在する(JFAの統一契約書によるものではないためアマチュア扱いとなる)。クラブとしては、この体制で競技力の強化を図っている。

ジヤトコサッカー部(1972-2003)
自動車不況の犠牲となったJFL黎明期の強豪
Honda FCと同様、静岡県を拠点としていたジヤトコサッカー部もまた、2000年代初頭のJFLを代表する強豪だった。1999年の第1回JFLから参戦し、コンスタントに上位を維持してJFL黎明期の中心的存在となった。多くのクラブがJリーグ昇格を目標とする中で、ジヤトコもJリーグへの加盟申請を行わない方針を貫いた。
同クラブは、日本自動変速機株式会社(現ジヤトコ・トランステクノロジー株式会社)サッカー部として1972年に静岡県富士市で創部された。1999年、ジヤトコ株式会社とトランステクノロジー株式会社(旧日産自動車富士工場)の合併により、チーム名はジヤトコ・トランステクノロジーサッカー部(略称ジヤトコ・TT)に改められ、2002年に再び会社合併による社名変更でジヤトコサッカー部となった。
本拠地は、現在J3沼津が使用している愛鷹広域公園多目的競技場である。JFLには1997年、東海社会人サッカーリーグ優勝を経て昇格し、2003年まで活動。在籍中の2001年には3位の好成績を収めた。2003シーズンは、ザスパ草津(現ザスパ群馬)や愛媛FCといったJリーグ昇格を目指すクラブが、ジヤトコの堅守に苦戦し、その厚い壁に跳ね返された。
しかし2003年10月5日、シーズン残り7試合というタイミングでクラブの廃部が発表され、その歴史に幕を閉じた。廃部の理由としては、観客動員数の低迷に加え、自動車業界を取り巻く環境の厳しさと親会社の経営判断が挙げられる。
コメントランキング