鹿島紅白戦の激しい当たりで2種登録選手に
ー鹿島ユースに入って苦しい日々が続いたとのことでしたがレベルはいかがでしたか?
藤田氏:まわりのレベルが圧倒的に高くて、自分だけ明らかに能力で劣っていました。自分は今でもそうなのですが、大事な時には自分の実力以上の力を発揮できるためユースに入れましたが、普段の練習はそういうわけではありません。試合に出れずに焦っていたのですが、ジュニアユースのセレクションの時に手紙の返事をくれた監督がまた手紙をくれたのがきっかけでモチベーションが上がり、練習が終わってから寮を抜け出して毎日、夜中の11時くらいから2時間くらい公園で自主練習をしました。
ーそこから鹿島の紅白戦がきっかけで、2種登録選手(U-18でトップチーム登録)になることができたのですね。
藤田氏:高校2年生の年に日本代表合宿が行われ、当時の鹿島のトップチームからは小笠原満男氏や中田浩二氏、秋田豊氏などが選出されました。代表合宿期間中に鹿島で紅白戦があり、代表メンバーが抜けてユースの先輩も怪我をしていました。当時、僕はセンターバックだったのですが、同い年の同じポジションの選手は途中でユースを辞めたため、紅白戦に出場可能なセンターバックが自分だけで「紅白戦だから」という理由で出してもらえることになりました。「ついにチャンスが来た、絶対に見せつけてやる」とモチベーションが上がり、前日は全然寝れませんでした。いつもテレビで見る人たちと初めて一緒にボールが蹴れて、とにかくテンションがあがりまくりでした。
そして紅白戦が始まると、本番に強い僕は「意外とプロはこんなものなのか」と感じました。紅白戦でマッチアップした選手は当時のブラジル代表のエウレル(2002-2003鹿島所属)で、自分は失うものが何もなかったので激しくあたりにいきました。するとエウレルが切れだし、自分もヒートアップして激しいバトルになりました。紅白戦の後は学校に行く予定だったのですが、急遽監督に呼ばれて親まで呼び出されました。ブラジル人選手に激しいあたりでいって削ってしまったのでクビになったり怒られることを覚悟していましたが、2種登録選手としての契約のために呼ばれたのです。マッチアップしたエウレルが「あいつと契約したほうが良い」とフロントに話をしてくれていたのです。
ーご自身の誕生日の日にルヴァンカップでベンチ入りもされていますね。
藤田氏:高校3年生で18歳の誕生日を迎えた5月9日に、初めてトップチームの試合でベンチ入りしました。鹿島スタジアムには2万人のサポーターが詰めかけていました。2万人と7万人の違いはありましたが、中学生の時のフランスワールドカップと似たような光景で、今度は選手としてそれを味わうことができました。本当に感動的で、これまでのつらかった経験などがこみあげてきて涙が止まりませんでした。
ーその後、鹿島でのトップチーム昇格(正式なプロ契約)はかなわず、高校卒業と同時に当時関東リーグに所属していたザスパクサツ群馬に入団されます。
藤田氏:鹿島では試合に出れなかったのですが、ザスパが声をかけてくれ、2002年に入団して働きながらサッカーを続けることになりました。
鹿島の影響でブラジルに挑戦!そして現役引退の理由
ー2004年にはザスパブラジルのCFZ・ド・リオに期限移籍されますが、どのようなきっかけだったのでしょうか?
藤田氏:鹿島でプレーしてたブラジル人のサントスが草津でもチームメイトで、彼が「お前は元鹿島の選手だよな?それならブラジルに行くべきだ」と背中を押してくれたのがきっかけです。鹿島はジーコ氏やアルシンド氏の影響でブラジルとのパイプも強かったですし、サントスの勧めもあったのでブラジル行きを決断しました。
ーその後はザスパに復帰され、J2で1年プレーされた後に引退を決断されますが、22歳の若さで引退を決断した理由は?
藤田氏:ブラジルとザスパを行ったり来たりでしたが、草津がトントン拍子にJ2に昇格し、2005年の1シーズンJ2でプレーさせてもらいました。その中で、自分のレベルの限界というのを知りました。そして、プロサッカー選手になることが夢だったため、その夢がかなって満足してしまった自分がいました。その中でザスパ草津で戦力外になり、引退することに決めました。
後編で、現役を引退後、サッカースクールやスポーツ施設、お酒などの様々なビジネスを展開する藤田氏のセカンドキャリアについて聞いていきます。お楽しみに!
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