華やかなイメージのJリーガー。そのギャップとは
ファンにサインしたり声援を受けたり、プロには華やかなイメージがありますが、実際きつい部分もありますよね?
渡邉:練習もハードですし、結果が出ない時は本当にきついですね。1週間頑張った事が試合に勝ったり、ゴールを決める事ができた時にその辛さが報われると思っています。ケガをしてしまってプレーできない辛さだったり、試合に出られない状況だとメンタルコントロールするのも大変ですし、1年間を通してシーズンを戦う事はフィジカル、メンタル的にすごく疲弊します。好きなサッカーですが仕事としているので乗り越えられるんだなと気付きましたし、これを趣味や遊びでやるとなると無理ですね(苦笑)
Jリーガーは純粋にサッカーを楽しんでいる方は少ないと思いますか?
渡邉:正直、少ないと思います。仕事になった時点で、もしくはこれまでも色んな苦労を乗り越えて今があり、日々の練習もそうですし、真夏の炎天下の中練習するのはほんと地獄です(苦笑)それでも好きなサッカーを仕事にできているという事、小さい頃から夢であったプロサッカー選手になるということを叶えられたので、トータルでいうと楽しいんだと思いますね。
8年在籍した京都を離れ、大宮へ移籍を決断した理由はなんでしたか?
渡邉:京都には8年在籍し、その中で3回J2に降格し、2回J1に昇格しています。そのため、J1、J2を行ったり来たりの状態でした。そんな中、20代の半ばのサッカー選手として1番いい時期にJ1でプレーしたい思いがあって、大宮への移籍を決断しました。高校卒業して京都サンガに入団させてもらい、長い期間在籍したこともあり、クラブやファン・サポーターの愛着もとても強かったですし、京都一筋で引退するのも悪くないと思っていましたが、それでも高いレベルでやりたい想いの方が強くクラブとエージェントに移籍したい旨を伝えました。
京都から大宮への移籍で苦労したこと、良かったと思うことは?
渡邉:当時の大宮には知っている選手もほぼいなくて、私は人見知りな性格だったので環境に慣れるまでは大変でしたしレベルの高さに戸惑いがありました。でもそれは自分が求めてた事でたし、実際に移籍を経験してプレーの幅が広がったり成長できたなと実感できたのでよかったなと思いました。また知らない土地にきたことで色んな方との出会いもありましたし、関東近郊の色んなところに出かけたりたくさんの事を知る機会にもなったので大宮に移籍して良かったと思いましたね。
その後、韓国の釜山アイパークに移籍し、初の海外挑戦もされました。文化やサッカーの特徴も違う海外への移籍を決断したのはなぜですか?
渡邉:大宮を契約満了で退団し、国内で移籍先を探していましたが年が明けてもチームが見つからなかったことと韓国のチームからオファーがあったので行くしかないと思い決断しました。Kリーグで活躍してる姿を日本に届けるという強い想いで行きましたが、日本のサッカーとは違いゴリゴリのフィジカル重視のサッカーで適応するのはとても難しいリーグだなと感じました。
その後、韓国から当時J2のカマタマーレ讃岐に移籍を決断した理由は?
渡邉:韓国では試合にほとんど出場できずに半年近く経過し、このまま残りの半年間を過ごすと「サッカー選手としてのキャリアが終わってしまうのではないか」と危機感を覚えました。当時30歳を過ぎていて、もう1度Jリーグで活躍したいという思いがありました。そのため、J2でもいいのでとにかく日本に帰ってプレーする機会が必要だと考え、半年間無給でもいいからエージェントにチームを探してくださいとお願いをしたところ讃岐が手を挙げてくれました。
讃岐には当時クラブハウスが無かったり、環境面で京都や大宮時代と違うことが多くあり、社会人サッカークラブに近かったと思いますが、そのあたりはどう感じていましたか?
渡邉:日本でまたプレーできるという事を考えた時に環境面のことは一切気にならなかったですね。練習着も自分で洗濯しなければいけなかったですが、讃岐からまた這い上がるんだという気持ちの方が強かったですし、やはり試合や練習場でファン、サポーターの方たちから応援してもらえる喜びはありました。韓国の場合はファン、サポーターの数は日本よりも圧倒的に少なかったですからね。
Jリーガーの方は来年で引退しようと先に決める方もいれば、そうでない方もいると思います。どちらのパターンでしたか?
渡邉:私は引退をイメージしていませんでしたね。讃岐を退団し、引退することになった時にも「まだ選手としてやれる、やりたい」と思っていました。ただ、現実はそうでなく、次のシーズン開幕が迫る年明けに「自分の居場所はここにはない」と感じて、引退しました。そこからセカンドキャリアについて考え始めました。
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