
生い立ち
1929年、伝説のGKレフ・ヤシンはロシアの首都モスクワにある貧しい家庭に生まれた。1949年にディナモ・モスクワに加入したが、役回りはGKアレクセイ・コミッチの控え。当時のヤシンはHCディナモ・モスクワでアイスホッケーのGKとしてもプレーしており、1953年の国内選手権で優勝するなど氷上のGKとしても優秀であった。

国際舞台
1953年にコミッチの怪我をきっかけにクラブで正GKとして定着。1954年にソ連代表に初招集される。同年、ユーロ1960に初出場。ユーロ1964で2位躍進の原動力となった。
オリンピックでは、1956年の夏季オリンピック金メダルを獲得。3つのワールドカップ(1958年,1962年,1966年)に出場し、4/12試合でクリーンシートを達成している。

ミスからの失点
1962年ワールドカップチリ大会はヤシンにとって苦しい大会となった。グループリーグ・コロンビア戦では、マルコス・コルのコーナーキック直接ゴールを許し、チリ戦では平凡なシュートをミス。フランス紙『レキップ』はヤシンを「キャリアの終わり」と酷評し、バッシングの嵐に晒された。

復活劇
しかし、1964年に自らの活躍で悪評を覆す。リーグ戦で27試合6失点に抑えてチームを優勝に導くと、欧州選手権では準優勝。二大会連続のベストイレブンに選出され、歴史上唯一のGKとしてバロンドールを受賞している。

伝説のGK
レフ・ヤシンは、ディナモ・モスクワ一筋で20年間、ソ連代表として16年間プレーしたのち、1970年に現役引退。150回以上のペナルティキックをセーブし、キャリアで270試合以上のクリーンシートを達成した。

20世紀最高の選手
引退後の1998年にはFIFAの20世紀ワールドチームのGKに選出。ワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会から2006年大会まで「ヤシン賞」と名付けられた。

2018年ロシアW杯でも象徴に
レフ・ヤシンの写真は、2018年のワールドカップの公式ポスターの中心に置かれ、ソ連の壮大な歴史を思い起こさせる象徴となった。
このポスターを作成するにあたって、「ロシアのイメージを反映する」ことが重要視されたという。そこで、ロシアサッカーのシンボルであるレフ・ヤシンが選出された。このポスターは、2018年ワールドカップの最も印象的なマークの1つになるとみられている。
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