
JFAは12月8日、2025年度のJFA Proライセンスコーチ養成講習会を修了した7人を公表した。元日本代表DFの槙野智章氏をはじめ、指導現場でキャリアを積んできた面々が名を連ね、その中でも槙野氏は取得からわずか4日後にJ2藤枝MYFCの監督就任が発表されるという“異例のスピード出世”を果たした。経験豊富な指揮官がクラブ間を巡る傾向が強いJリーグにおいて、38歳の新人監督に託した藤枝の決断は大きな注目を集めている。
一方で、Proライセンス(旧S級)を取得してから10年以上が経過しても、Jクラブの監督どころかコーチとしても声が掛からない元日本代表選手が存在することは、あまり語られてこなかった事実だ。輝かしい現役実績、十分な資格を持ちながら、なぜ彼らは指揮官の道を歩めなかったのか。その背景には、指導キャリアの積み方、年齢、スキャンダル、そして“現場を選ばなかった”という個々の選択が複雑に絡んでいる。
ここでは、2015年以前にProライセンスを取得しながらも監督オファーに恵まれなかった元日本代表レジェンド6人を取り上げ、それぞれの現在地と、監督になれなかった理由を検証していく。

武田修宏氏(2005年取得/58歳)
静岡県立清水東高校1年時からスター街道を歩み、読売クラブに入団。Jリーグ開幕前後のヴェルディ川崎(1986-1992、1997、2000-2001)ではエースストライカーとして活躍し、キャリア終盤にはパラグアイ1部スポルティボ・ルケーニョへの移籍も経験した。日本代表としても長く名を連ね、90年代日本サッカーを象徴する存在の1人だった。
2001年に現役を引退後、2005年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。当初は指導者への意欲を示していたものの、ライセンス取得からおよそ20年が経過した現在に至るまで、Jクラブでの正式な監督・コーチ就任には至っていない。指導歴は、東京ヴェルディのキャンプでの特別コーチや名古屋グランパスでの短期間の臨時コーチなどに限られている。
武田氏が現場から遠ざかった最大の要因は、継続的な指導キャリアを積んでこなかった点にあるだろう。バラエティ番組を中心としたメディア露出が多く、現役時代の奔放なキャラクターや私生活のエピソードが強調されがちだったこともあり、指導者としてのイメージがクラブ側に浸透しなかった側面は否めない。かつて先輩のラモス瑠偉氏から、その振る舞いについて苦言を呈されたと伝えられたこともある。
すでに58歳となった現在、下部組織のコーチから段階的にキャリアを積む選択肢は現実的とは言い難く、いきなりトップチーム監督として招聘される可能性も高くはない。J2・J3の監督年俸を踏まえれば、タレント活動を続ける方が経済的に安定するという事情もある。結果として武田氏は、プロの指揮官ではなく、メディアや普及活動を通じてサッカー界と関わる道を選び続けていると言えるだろう。
吉田光範氏(2005年取得/63歳)
ハンス・オフト元日本代表監督の下で重用され、それまで「守備的MF」と呼ばれていたポジションに「ボランチ」という呼称を定着させた存在が吉田光範氏だ。1993年のW杯アジア最終予選、いわゆる「ドーハの悲劇」を経験した日本代表メンバーの一員で、堅実な守備と戦術理解度の高さでチームを支えた職人肌の選手だった。
引退後は指導者の道を選び、2005年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。古巣ジュビロ磐田のジュニアユース(2001年)およびユース(2007〜2009年)で指導に携わったが、トップチームのコーチや監督に昇格することはなく、ユース年代での指導を最後にクラブを離れている。
同じ“ドーハ組”からは、森保一日本代表監督を筆頭に、長谷川健太氏、井原正巳氏、中山雅史氏、都並敏史氏ら多くのJクラブ監督が誕生した。一方で、戦術眼や人望の面で指導者向きと見られていた吉田氏に声が掛からなかった背景には、トップチームでの指導経験を積む機会を得られなかった点が大きい。下部組織からトップへとステップアップする導線をつかめないまま、キャリアが途切れてしまった。
現在は地元・愛知県刈谷市で子ども向けの「ヨシダサッカースクール」を運営し、育成と普及の現場に身を置いている。かつての盟友たちがJリーグのベンチで采配を振るう一方、表舞台から距離を置いた形ではあるが、現役時代と同じく“いぶし銀”の立場で日本サッカーを支え続けていると言えるだろう。

福田正博氏(2006年取得/58歳)
1995シーズン、浦和レッズのエースとして日本人初のJリーグ得点王に輝き、「ミスター・レッズ」の愛称で親しまれた福田正博氏。日本代表FWとしても活躍し、90年代Jリーグを象徴するストライカーの1人だった。献身的なプレースタイルと高い戦術理解度から、現役時代より指導者向きとの評価も少なくなかった。
2002年の現役引退後、2006年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。2008年から2010年にかけては、フォルカー・フィンケ監督の下で浦和のトップチームコーチを務め、サポーターからは将来の監督候補として期待を集めた。しかし、その後は現場を離れ、継続的な指導キャリアを積むには至っていない。
福田氏は分析力の高さに定評があり、解説者としても評価が高い。著書『決定力 なぜ日本人は点が取れないのか』(集英社)に見られるように、理論的な視点を持ち合わせている点は、指導者として大きな武器となり得たはずだ。一方で、引退後早い段階から解説業やJFAアンバサダーとしての活動に比重を置いたことで、指導実績が途切れてしまったことは否めない。
浦和が近年、外国人監督を中心とした体制を敷いてきた点も、福田氏にとっては逆風となった可能性がある。年齢的に可能性が完全に閉ざされたわけではないものの、すでに解説者として確固たる地位を築いており、現職監督へのリスペクトから公に監督志向を強調しない姿勢も一因だろう。
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