先週サッカーの歴史を描いた一人の選手が引退した。それはバルセロナやインテルなどで大活躍したサミュエル・エトオである。バルサで彼と一緒にプレーしたメッシも「サミュエル、もう引退するの?40歳までプレーすると思ってたのに〜」とSNSに書き込み、引退発表に驚いた。驚いたのはメッシだけではない。まさかこんなに早くその日が来るとは誰にも想像できなかっただろう。
エトオの物語はカメルーン共和国のドゥアラという街から始まった。カジ・スポーツ・アカデミーに所属していたエトオは15歳の年にレアル・マドリードにスカウトされて、スペインに旅立った。しかし、スペインサッカー協会の当時のルールである問題が発生した。スペイン2部ではEU外の選手はプレーできなかったのだ。そのルールがあったため、エトオはレアルのBチームでプレーできず、経験を積むためにレガネス、エスパニョール、そしてマジョルカにレンタル移籍した。
マジョルカはエトオの才能を認め、彼を完全移籍で獲得した。そして、それは素晴らしい判断だったと結果で示された。エトオはマジョルカに4シーズン所属し、トータルで70得点を稼げた。その活躍のおかげでバルセロナは彼に目をつけて、エトオは世界のトップレベルで戦えるようになった。
ブラウグラナ背番号「9」をいただいた彼は二人のとんでもない選手とアタッキング・トリオを組む。それはロナウジーニョとライオネル・メッシである。2004年から2008年にかけてエトオはラ・リーガ2回、そしてチャンピオンズリーグ1回を優勝(決勝戦でアーセナル相手に見事にゴール。リーグの得点王になったこともある。)
2008年にはバルサの監督はジョゼップ・グアルディオラに変わった。最初、グアルディオラは前のシーズンに怪我で悩んでいたエトオを魅力的な選手と判断しなかった。2008年の夏の移籍期間中にエトオは移籍をする予定だったが、うまく新しい行き先が見つからなかった。
しかし、それはグアルディオラにとってとてもラッキーなこととなる。怪我から完全に復帰したエトオはメッシ、そしてティエリ・アンリと組んで、次のシーズンでは3人で100得点を決めた。(エトオ36得点、メッシ38得点、アンリ26得点)。さらにそのシーズンにバルサはラ・リーガ、コパ・デル・レイ、チャンピオンズリーグという3冠で一気に優勝!
そのシーズンの素晴らしい結果にも関わらず、グアルディオラはズラタン・イブラヒモビッチを獲得するためにエトオをインテルに渡した。エトオ自身にとって2009/2010年シーズンはとても苦しいシーズンになった。当時インテルの監督であったジョゼ・モウリーニョは4-2-3-1というシステムを使っていた。そして、そのシステム内トップ下で使われたのはディエゴ・ミリートであった。エトオのポジションはウィングに変更され、得点率は一気に下がった(2008/2009年の36得点と比べて、たったの6点)。
しかし、彼は新しい役割を素直で受け入れ、攻撃参加の面だけではなく、守備的にも大事な存在になった。サイドでの素晴らしい活躍のおかげでもあり、そのシーズンインテルも3冠で一気に優勝(セリエAリーグ、コッパ・イタリア、チャンピオンズリーグ)。それでエトオはサッカー史上初めて2シーズン連続タイトル3冠を優勝した男になり、「3冠男」と呼ばれるようになった。その次のシーズンもインテルに残った彼は35試合に出場して21得点という素晴らしい活躍をした。
その後、エトオはたくさんのチームをまわり始めた。まずは2000万ユーロ(約24億)という莫大な年俸でロシアのアンジ・マハチカラに移籍した。そして、2013年にモウリーニョの元に戻るためチェルシーに移籍したが、結果を残すことができなかった。2014年にも移籍が続く。たった一年でエバートンにもサンプドリアにも移籍した。結果はいまいちであった…
この時点に選手として終わりだと思われたエトオはトルコのアンタルヤスポルに新しい冒険に挑戦した。3年トルコのクラブに所属した彼は44得点を記録し、アンタルヤスポルの歴史に最も得点を稼いだフォワードとなった。2018/2019年には同じトルコリーグのコンヤスポル、そしてカタールSCに移籍してから引退を発表した。
エトオはバルセロナとインテルの活躍でサポーターの記憶に残るだろうが、カメルーン代表の歴史も大きく変えた。代表選手として、118試合に出場し56得点。カメルーン代表史上最も得点を決めた選手となった。さらにアフリカ・カップ2回優勝、そして2000年のシドニーオリンピックでは金メダルを手に入れた。
選手としても人間としてもサッカー界に良い影響を与えた男である。引退したことはとても寂しいことですが、選手としてじゃなくてもエトオはサッカーの道を歩み続けるだろう。どんな形でサッカー界に再び現れるのかはとても楽しみだ。
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