サッカー界の魔法使いロベルト・バッジョ。彼はフレキシブルなドリブルで相手を翻弄し、FWとしても正確なキックを持っている。
今回は51歳の誕生日を迎えた“ファンタジスタ”のキャリアを振り返ると共に、祝福したい。
ビツェンツァ時代 (1982-1985)
ロベルト・バッジョの才能はアントニオ・モラによりビツェンツァに導かれた。ビツェンツァのジュニアチームで120試合に出場し110得点を記録。15歳の時にピアツェンツァ戦でセリエCデビューを果たすと。6月3日にはブレシア戦で初ゴールを記録した。
フィオレンティーナ時代 (1985-1990)
ビツェンツァでの活躍により、フィオレンティーナへとステップアップを果たしたバッジョ。150万ポンドの移籍金が支払われた。しかし、フィオレンティーナに加入する2日前に前十字靭帯を負傷する悲劇が襲われ、医療チームにも現役続行を危惧されたが、フィオレンティーナは彼の活躍を信じた。結果として136試合に出場し55ゴールを記録。1990年のUEFAカップ決勝進出に大きく貢献した。
ユベントス時代 (1990-1995)
ユベントスはバッジョを800万ポンドでトリノへ連れてきた。当時としては最高額の移籍金だ。彼はミシェル・プラティニの着けていた背番号10を受け継いだ。バッジョは200試合で115ゴールを記録。ユベントスでスクデット、UFFAカップ、コッパ・イタリアの3つのタイトルを手にした。1993年にはバロンドールも受賞している。
イタリア代表 (1994)
バッジョの忘れられない瞬間の1つに1994年のワールドカップ決勝、ブラジル戦でのPK失敗だろう。「PKを失敗できるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」など、あまりにも有名な数多くの明言はこの出来事がきっかけとして生まれた。
ミラン時代 (1995-1997)
ユベントスはアレッサンドロ・デル・ピエロという後継者を見つけたことで、バッジョの放出を決めた。ユベントスは給料の50%カットを受け入れない限り放出するとバッジョに伝え、バッジョはミランに行くことを決めた。ユベントス所属時ほどの結果を残すことはできなかったが、1995/1996シーズンにスクデットをもたらした。
ボローニャ時代 (1997-1998)
ミランであまり良くない時間を過ごしたバッジョは移籍を決断する。パルマ行きを目論んだが、当時パルマ監督のカルロ・アンチェロッティ氏に必要ないと判断され、移籍は失敗。ボローニャへ移ることとなる。自己最多の22ゴールを記録し、代表にも召集された。
インテル時代 (1998-2000)
1998年からはインテルに所属する。随所で活躍を見せるも、ケガに苦しめられ満足な活躍ができない。それに拍車をかけるように当時インテル監督マルチェロ・リッピ氏との確執により、出場機会は激減した。
ブレシア時代 (2000-2004)
バッジョはインテルとの契約延長を拒否した。リッピとの確執の影響だ。少ない選択肢の中からバッジョはブレシアを新天地に選んだ。ベテラン、カルロ・マッツォーネ監督の下ブレシアは1946年以来最高位の8位でリーグ戦を終えた。ブレシアで101試合に出場46ゴールを記録するなどキャリア有終の美を飾った。
誕生日おめでとう。レジェンド!
著者:アリーフ・マウラナ
Twitter:@aliefmaulana_
コメントランキング