今や当たり前となった日本人サッカー選手の欧州移籍。欧州5大リーグ(プレミアリーグ、ラ・リーガ、セリエA、ブンデスリーガ、リーグ・アン)はもちろん、2部リーグやオランダ、ポルトガル、ベルギーなどの中堅リーグ、マイナー国のリーグへの移籍も合わせると、その人数は3桁にも及ぶと言われている。
現在のように多くの日本人選手が欧州で活躍する以前には、言葉の壁やプレースタイル、監督やファンからの偏見に耐えつつ、奮闘しながらも志半ばで帰国を余儀なくされた選手も多く存在した。ここではそんな彼らにスポットを当て、欧州移籍の道を切り拓いた事実にリスペストを込めつつ、“失敗”に終わった要因を挙げていきたい。
戸田和幸(2013年引退)
移籍元:清水エスパルス(1996-2004)
移籍先:トッテナム・ホットスパー(2003)ADOデン・ハーグ(2004)
日韓W杯“カルトヒーロー”から一気にプレミアのトップクラブへ
2002年のFIFAワールドカップ(W杯)日韓大会で、赤く染めたモヒカン頭で注目を浴び、プレー面でも本大会4試合にフル出場したMF戸田和幸。2024シーズン限りで引退したMF稲本潤一と共にダブルボランチを組み、主に守備面で貢献、史上初の決勝トーナメント進出の陰の立役者となった。
当時所属の清水エスパルスでは元々、3バックの一角としてDFのレギュラーポジションを獲得していたが、2001シーズンMFサントスが移籍したため、当時のゼムノビッチ・ズドラブコ監督によってボランチへとコンバートされ、能力が開花した。
W杯の活躍により2003シーズンにプレミアリーグの名門トッテナム・ホットスパーに移籍することになるのだが、この移籍の裏には、1996シーズンから2シーズンにわたって清水の監督を務めたオズワルド・アルディレス氏のプッシュがあったと言われている。
アルゼンチン人のアルディレス氏は1978シーズンから10シーズンにもわたり、トッテナムの中心選手として活躍。その間、1982年にはイギリスとアルゼンチンの間ではフォークランド紛争が勃発したにも関わらず、トッテナムのサポーターは彼を愛し続けた。
そんなアルディレス氏の“推薦”もあってレンタル移籍を果たした戸田だが、恩師の期待には応えられず、ケガなどもあり、わずか公式戦4試合出場に終わる。
さらに試練は続く。翌2004シーズンにはオランダ1部エールディヴィジのADOデン・ハーグに再レンタルされ、一時はレギュラーポジションを奪取したものの、持ち前の球際の激しさで、ことごとくファールを取られ、挙げ句、そのストレスをメディアにぶちまけてしまう。
「こんなクソみたいなサッカーをするチームで、ちょっとしか出られない僕は本当にクソなんだろうなと思い、腹が立ちました」この言葉によって、クラブのみならずサポーターも敵に回してしまい、“デン・ハーグ史上最悪の助っ人外国人”のレッテルを貼られてしまう。そして2004シーズンのセカンドステージに清水へ復帰することになった。
現在、現役時代の尖ったキャラクターとは正反対で、理路整然とした口調の人気解説者として活躍している戸田氏だが、欧州では苦汁を舐め続けた。その経験が、欧州サッカーの試合解説においても、選手たちへのリスペストという形で表れているように思える。
中田浩二(2014年引退)
移籍元:鹿島アントラーズ(1998-2004)
移籍先:オリンピック・マルセイユ(2005-2006)
欧州への「ゼロ円移籍」の道筋を作ってしまった悪しき前例に…
DF中田浩二もまたW杯日韓大会で、フィリップ・トルシエ監督の看板戦術「フラット3」の一員として、日本代表の16強進出に大きく貢献した1人だ。
トルシエ監督はアフリカ各国を指揮し、日本代表監督(1998-2002)勇退後にはカタール代表監督(2003-2004)を務めていたが、2004/05シーズンにリーグ・アンの名門オリンピック・マルセイユの監督に抜擢。中田は2004年のJリーグのシーズン終了後、トルシエ監督が招いた形で、マルセイユの練習に参加した。獲得を打診するが、当初に提示された移籍金が低額だったため、鹿島アントラーズ側は中田の移籍を認めなかった。
マルセイユ移籍を望んだ中田は、鹿島からの契約更新を拒み続け、結果2005年1月にフリーでの移籍を果たす。しかし、これを機に欧州移籍を希望する選手の「ゼロ円移籍」が頻発するきっかけとなり、日本サッカー界にとっては悪しき前例となってしまう。
中田はその後、トルシエ監督のマルセイユ退任と共に出番を失い、スイス・スーパーリーグの名門バーゼルに移籍。主力として優勝にも貢献したが、「移籍金ゼロ」での復帰を願う鹿島側と約3億円の移籍金を要求したバーゼルとの交渉は決裂。結局、リーグ戦佳境の2008年4月の契約満了とともに鹿島に復帰した。
財前宣之(2012年引退)
移籍元:ヴェルディ川崎(1995-1998)
移籍先:ログロニェス(1996)HNKリエカ(1999)
あの中田英寿が「天才」と呼んだ男も…
Jリーグ創設間もない1993年8月、日本で開催されたU-17世界選手権(現U-17W杯)で、日本代表の背番号10を背負ってチームを8強に導き、大会ベストイレブンに選出されたMF財前宣之。後に日本を代表する選手となる中田英寿をして「上手すぎて近寄りがたかった。ひと言で言えば天才」と言わしめた。
当時、読売ユース(現東京ヴェルディユース)に所属していたが、1995年にトップチームに昇格する。当時のヴェルディ川崎は、ラモス瑠偉(1998年引退)武田修宏(2001年引退)北澤豪(2002年引退)ビスマルク(2003年引退)さらにセリエA・ジェノアへのレンタル移籍から復帰した三浦知良(現アトレチコ鈴鹿クラブ)も名を連ねた超の付くスター軍団。
攻撃的MFだった財前にポジションはなく、セリエAラツィオへの留学を経て、翌1996年、当時スペインのラ・リーガ1部に所属していたログロニェスにレンタル移籍した。当時の監督は、後に東京V(2017-18)、セレッソ大阪(2019-2020)、清水エスパルス(2021)、ヴィッセル神戸(2022)でも指揮を執ったミゲル・アンヘル・ロティーナ氏だった。
しかし、古傷でもあった膝前十字靭帯の負傷を繰り返し、1シーズンのみで退団。帰国から約1年後にJリーグ初出場を果たすと、今度はクロアチア1部のHNLリエカに移籍するが、ここでもまたケガとの戦いに終始し、ログロニェス時代と同じく公式戦出場0に終わる。彼のサッカー人生はケガとの闘いでもあった。
この2回にわたる欧州挑戦が失敗に終わったことで「早熟」と囁かれ始めた財前だったが、1999年、当時J2のベガルタ仙台に移籍すると、中心選手として活躍。チームを初のJ1昇格に導く。サポーターからの人気も絶大で、2005シーズンのオフに仙台から戦力外通告を受けると、撤回を求めるサポーターの署名が1万人以上集まったという。
その後、J2のモンテディオ山形(2006-09)、タイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッド(2010)、BECテロ・サーサナ(2011、現ポリス・テロ)でプレーし、2012年1月に引退。北海道室蘭市出身ながら、現在は現役時代に最も輝いた仙台の地でサッカースクールを運営している。
コメントランキング