ラ・リーガ レアル・マドリード

モドリッチの人間的な魅力はどのように育まれたのか?乗り越えた4つの試練

ルカ・モドリッチ 写真:Getty Images

クロアチア代表MFルカ・モドリッチ(レアル・マドリード)は、ピッチ上のプレーもさることながら、人としての魅力がある。この人間力がモドリッチ自身のプレーの源泉になっているのはもちろん、ピッチの内外で遺憾なく発揮されチーム全体を支えていると言える。

モドリッチの人間力は、どのようにして生まれたのだろうか。その深すぎる生い立ちを辿ってみよう。

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ルカ・モドリッチ 写真:Getty Images

紛争というどん底から始まった人生

ピッチ上では熱くエネルギッシュなプレーを魅せるモドリッチだが、オフ・ザ・ピッチではとても静かな性格で、まるで二重人格かと思うほどだ。重い過去を背負っているせいか、普段は寡黙だ。そして、深々と周囲を見つめている。そんな無口なモドリッチにとって、サッカーは自己表現する言語そのものだ。

生まれ育ったクロアチアは、欧州の火薬庫と形容されるバルカン半島に位置する。地理的に欧州とアジアの狭間にあり、様々な民族が混ざり合って暮らしており歴史的に紛争も頻発してきた。

そして不運にもモドリッチが幼少期にクロアチア紛争(1991-1995)とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992–1995)に巻き込まれ、祖父が落命の憂き目に。ルカの名は祖父にちなんだものだった。故郷の町を追われて18歳の頃にプロ契約するまで、長らく戦争難民として生きてきた。

物心ついた頃には家族が紛争の渦中にあり、どん底の状況からモドリッチの人生は始まったのだ。

熱く激しいプレーを魅せる一方で、試合中に一喜一憂せず、精神的に非常に安定している。それも、モドリッチの生い立ちを知れば合点がいく。モドリッチは少年時代に空襲警報が鳴るなかで、仲間たちとストリートサッカーに没頭していた。銃弾が飛び交い爆弾が落ちてくる本当の戦争の苦悩に比べたら、サッカーの試合の危機的状況なんて、へっちゃらだ。


ハイドゥク・スプリト 写真:Getty Images

プロクラブの入団テストに不合格

モドリッチは10歳で、クロアチア1部のビッグクラブであるハイドゥク・スプリトの入団テストを受けたが、フィジカルが弱いことを理由に落ちてしまい、近隣の弱小ザダルでプレーした。

しかし発育が遅かったことは、むしろモドリッチの成長を促した。身体の成長が早い選手が体格や力任せにプレーできるのに対して、小柄でひ弱なモドリッチは技術や判断力などプレーの仕方を工夫する必要があった。

そして16歳の時に晴れて実力が認められて、もう1つのビッグクラブであるディナモ・ザグレブのユースの門をくぐったのである。

少年時代から数々の挫折を乗り越えてきた。この経験はモドリッチを人間として大きくした。そしてモドリッチの不屈の精神は、38歳289日でUEFA欧州選手権(ユーロ2024)の史上最年長得点を決める原動力にもなった。

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名前Takuya Nagata
趣味:世界探訪、社会開発、モノづくり
好きなチーム:空想のチームや新種のスポーツが頭の中を駆け巡る。世界初のコンペティティブな混合フットボールPropulsive Football(PROBALL)を発表。

若干14歳で監督デビュー。ブラジルCFZ do Rioに留学し、日本有数のクラブの一員として欧州遠征。イングランドの大学の選手兼監督やスペインクラブのコーチ等を歴任。アカデミックな本から小説まで執筆するサッカー作家。必殺技は“捨て身”のカニばさみタックルで、ついたあだ名が「ナガタックル」。2010年W杯に向けて前線からのプレスを完成させようとしていた日本代表に対して「守備を厚くすべき」と論陣を張る。南アでフタを開けると岡田ジャパンは本職がMFの本田圭佑をワントップにすげて守りを固める戦術の大転換でベスト16に進出し、予言が的中。

宇宙カルチャー&エンターテインメント『The Space-Timer 0』、アートナレッジハブ『The Minimalist』等を企画。ラグビーもプレーし広くフットボールを比較研究。

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