ロナウド(ブラジル代表)2002年日韓W杯
デビュー以来、爆発的なスピードとパワー、優れたボールテクニックで次々とゴールネットを揺らして「イル・フェノーメノ(超常現象)」と謳われた元ブラジル代表FWロナウド。右膝靭帯断裂の大怪我から復帰した後、25歳で自身3度目のW杯となる2002年の日韓大会でついに戴冠となった。
当初はメンバー入りも危ぶまれ、大会開幕後も決して万全のコンディションではなかったが、準決勝までの6試合で6点を奪って結果を残す。そして“大五郎カット”で臨んだドイツとの決勝では、前半こそGKオリバー・カーンを中心とした鉄壁の守備に苦しんだが、67分にMFリバウドのミドルシュートをカーンが前方にこぼした隙を見逃さずにロナウドが嗅覚鋭く先制ゴール。さらに79分には、右サイドからのグラウンダーのクロスに反応し、右足トラップの後、冷静に右足でゴール右隅に流し込んだ。
その4年前の1998年フランスW杯では、決勝前日に原因不明の痙攣で倒れた影響もあってフランスに0対3の大敗を喫したが、その借りを返すとともに自身の“怪物ぶり”を見せつけた決勝での2得点だった。
ジネディーヌ・ジダン(フランス代表)1998年フランスW杯
まさに「英雄」だった。元フランス代表MFジネディーヌ・ジダンは、背番号10の司令塔として地元開催のW杯に出場。期待を一身に背負った中で、グループリーグ第2戦のサウジアラビア戦で相手を踏みつけて一発退場(2試合の出場停止処分)となる。
だが戦列復帰後は、持ち前の正確無比なボールコントロールと強靭なフィジカル、多彩なアイディアで攻撃を牽引したジダン。迎えたブラジルとの決勝戦では、前半27分にDFエマニュエル・プティのコーナーキックに対してニアサイドに走り込み、強烈なヘディングシュートを叩き込んで先制点。さらに前半終了間際には、逆サイドからのMFユーリ・ジョルカエフのコーナーキックに再び頭で合わせて追加点を挙げた。
会場のスタッド・ド・フランスが、「ナンバー10!ジネディーヌ・ジダン!」のアナウンスとともに大歓声に包まれた。フランスは悲願のW杯初優勝。シャンゼリゼ通りはトリコロールで埋め尽くされ、凱旋門には英雄ジダンの顔が映し出された。移民の子であるジダンの活躍と存在は、その後のフランス代表、さらにフランス政治においても大きな意味を持つことになった。
ジェフ・ハースト(イングランド代表)1966年イングランドW杯
カタールW杯でムバッペがW杯決勝史上2人目のハットトリックを決めたが、1人目の男がこのサッカーの母国イングランドのストライカー、FWジェフ・ハーストだった。A代表デビューから数ヶ月後に開かれた地元W杯に出場。当初は控えだったが、エースFWの負傷によって大会途中からスタメン出場のチャンスを得た。
そして「聖地」ウェンブリーで行われた西ドイツとの決勝戦で3得点。素早いリスタートでのロングボールを頭で合わせて1点目を決めると、2対2の同点で迎えた延長前半11分に、右サイドからのクロスをゴール前でトラップして反転シュート。これがクロスバーに当たって真下に落ちるも得点が認められる“疑惑のゴール”で2点目。さらに試合終了間際に、前がかりとなった相手DFラインの裏でボールを受け、ドリブルからの左足シュートで3点目を決めて拍手喝采を浴びた。
このハーストの決勝ハットトリックは、カタールW杯ではムバッペの3得点よりも前に、日本代表の「三笘1ミリ(ドイツ戦で日本が逆転ゴールをあげた際、三笘薫によるアシストが1ミリ差でボールアウトとならず)」の際に引き合いに出されている。ドイツ国内では「疑惑のゴール」とされ「またもドイツが見放された」と嘆いた。
ペレ(ブラジル代表)1958年スウェーデンW杯
のちに「サッカーの王様」と呼ばれる男、元ブラジル代表FWペレが初めて出場した1958年スウェーデンW杯。当時17歳のペレは故障の影響で2試合を欠場した後、グループリーグ第3戦のソビエト戦でW杯初出場を果たすと、準々決勝のウェールズ戦ではW杯史上最年少となる17歳239日で得点。さらに準決勝のフランス戦ではハットトリックをマークした。
そして迎えたスウェーデンとの決勝戦、2対1で迎えた55分に魅せるペレ。左サイドからのクロスに相手DFと競り合いながら胸トラップでボールを収めると、すぐに寄せに来たもう1人のDFを巧みな浮き球で頭上を抜き、そのままボールの落ち際をボレーで叩いてゴールネットを揺らした。終了間際にも強烈なヘディングシュートを決めて2得点。「背番号10、ペレ」を世界中に轟かせ、伝説がスタートすることになった。
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