プレミアリーグ アーセナル

ロシアのレジェンド、アルシャビンの栄光と没落。泥酔状態で馬に乗って帰宅?

アンドレイ・アルシャビン 写真提供: Gettyimages

すでに忘れている人も多いかもしれないが、10年ほど前にクリスティアーノ・ロナウドとバロンドール賞を争う一人のロシア人選手がいた。ゼニト・サンクトペテルブルクのシンボルとなったアンドレイ・アルシャビンだ。

彼は素晴らしいパフォーマンスの連続で、2007/2008シーズンにゼニトをヨーロッパリーグ優勝に導き、ロシア代表選手としては2008年ユーロのトロフィーを手に入れる目前にまでたどり着く活躍を見せる。

2009年にはアーセナルに移籍し、ファンタジスタ(プレーメーカー)としてそのまま2シーズンほど大活躍するも、2011年から急激にパフォーマンスが落ち、没落の道へ。

アルシャビンのストーリーを少し細かく見てみよう。


アンドレイ・アルシャビン 写真提供: Gettyimages

キャリアの始まり。親のトラブル、命拾いした事故、才能の発揮

アルシャビンは、1981年5月28日にソビエト連邦のレニングラードで生まれた。ロコモティフ・モスクワのアカデミーでサッカーを始め、7歳の時に父の勧めでゼニトのアカデミーに加入した。

ゼニトのユースでプレーをし始めてから、彼は多くの災難に見舞われる。ある日には、アカデミーに向かおうとしていたアルシャビンが車に引かれる事故が起こった。擦り傷だけで命拾いをしたものの、当時のロシアの新聞は死亡しなかったことが奇跡と報じた。

12歳の頃には両親が離婚し、母方と暮らすこととなった。そして若干40歳にして父が梗塞で早死すると、アルシャビンは別人のような気難しい性格となり、多くのトラブルを起こすようになった。

しかし、サッカーの実力ならピカイチだった上、頭もとてもよかったアルシャビンは、1999年にはロシア2部だったゼニトのセカンドチームで1シーズンをプレーすると、すぐにトップチームに呼ばれ、あっという間にエースと呼ばれる存在になった。また、サッカーをしながらデザインの大学を卒業し、趣味であったチェスの世界ではプロになれるほどの実力者だったという。

172cmと小柄で、両足でボールを操ることができたアルシャビンは、巧みな技術の持ち主だった。最初は右サイドでウイングとして使われていたが、力を発揮したのはセカンドストライカー、またはトップ下のポジションであった。

ロシア国内で最も輝いたのは2007年、ゼニトの監督がオランダ人のディック・アドフォカートとなってからだ。素晴らしいパフォーマンスの連続とシーズン中に挙げた10得点で、チームをリーグ優勝に導いた。海外選手が一人もいなかったゼニトにとって歴史に残る奇跡的な優勝だったと言われている。


アンドレイ・アルシャビン 写真提供: Gettyimages

2008年ユーロでの大活躍とバロンドールの夢

2008年。4年に一度行われるユーロの年。アルシャビンは代表選手に抜擢され、トーナメント中最も輝いたロシア人選手となった。しかし、プレーした試合はわずか3戦だったのだ。

彼は予選最終戦のアンドラ代表戦で暴行により退場処分となり、ユーロのグループリーグ最初の2試合には出場することができなかった。復帰を果たしたのはグループリーグ第3節のスウェーデン戦。ロシア代表はグループステージを突破し、準々決勝では優勝候補と言われていたマルコ・ファン・バステン率いるオランダ代表まで打ち負かしている。

結果、残念ながらロシア代表は準決勝でスペイン代表に敗れ、ユーロ優勝の夢を叶えることができなかった。しかし、アルシャビンは3戦のみでのプレーにもかかわらず、大会のベスト11に選出される。そして、クリスティアーノ・ロナウド、リオネル・メッシ、フェルナンド・トーレスなどと共に、2008年のバロンドール候補としてノミネートされたのだ。

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名前Uccheddu Davide(ウッケッドゥ・ダビデ)
国籍:イタリア
趣味:サッカー、アニメ、ボウリング、囲碁
好きなチーム:ACミラン、北海道コンサドーレ札幌、アビスパ福岡

14年前に来日したイタリア人です。フットボール・トライブ設立メンバーの1人。6歳の時に初めてミランの練習に連れて行ってもらい、マルディーニ、バレージ、コスタクルタに会ってからミランのサポーターに。アビスパ福岡でファビオ・ペッキア監督の通訳も務めた経験があります。

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