日本サッカー協会が26日に森保一氏の日本代表監督就任を発表。東京五輪世代のU-21日本代表との兼任になると発表されている。今回はJリーグでも多くの功績を残してきた同監督の、これまでのキャリアを振り返り、ご紹介する。
プロの世界へ
長崎日本大学高等学校でオフェンシブなミッドフィールダーとして才能を開花させた森保監督。山梨国体選抜に選ばれるほどの実力だった。その高校時代の恩師がJリーグ発足前の日本サッカーリーグに所属するマツダ(現サンフレッチェ広島)の今西和男総監督と知り合いだったた縁もあり、1987年に同クラブへ入団を果たす。
日本代表デビュー
現名古屋グランパス監督の風間八宏氏などと2部に降格したマツダを1部昇格に導くなど、主力として活躍していた森保監督。1992年4月に当時の日本代表監督、ハンス・オフト氏によって代表初召集。同年5月のアルゼンチン戦で先発出場を果たし、代表デビューを飾った。
京都サンガへの移籍
1997年にサンフレッチェ広島に経営状況が悪化。主力の放出を余儀なくされたクラブに森保監督を引き留める力はなく、1998年にオフト氏に誘われる形で京都パープルサンガへと移籍。低迷していた京都サンガだが、主力としてプレーした。
サンフレッチェ広島復帰から引退
1999年に広島へと復帰を果たす。同シーズンにJリーグ通算200試合出場を達成している。しかし、ケガなども重なり徐々に出場機会を失い、2002年にはスタッフへの転身を勧められるも拒否。ベガルタ仙台へ移籍。主力としての活躍を見せたが、J2降格などを味わい2004年1月に現役引退を発表した。
指導者へ
引退した2004年にサンフレッチェ広島の強化部コーチに就任した森保監督。同年のJFA1公認S級コーチライセンスを取得すると、2005年2月にU-19サッカー日本代表コーチに就任、クラブの仕事と兼任する形になった。
サンフレッチェ広島の監督へ
AFCユース選手権などで結果を残した森保監督はアルビレックス新潟のヘッドコーチを務めるなど、着実にキャリアを積み上げていった。すると2011年に広島は経営状況の悪化からミハイロ・ペトロビッチとの契約延長を断念。後任として登用されたのがペトロビッチ監督のサッカーを理解し、クラブ方針にも理解のあった森保監督だった。
日本代表監督へ
監督就任1年目でのJ1優勝や、そこからの連覇など4年間で3度の優勝を飾った森保監督。ACLでこそ結果を残すことはできなかったが、名将として名を轟かせた。しかし、2017年シーズンは低迷。成績不振を理由に監督の座を退いた。すると、同年10月に2020年東京オリンピックを目指す五輪代表の監督に就任。ロシアワールドカップでも西野朗体制入閣している。2018年7月26日に西野朗監督の後を継ぐ、新監督に任命された。
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