
城彰二氏(2009年取得/50歳)
鹿児島実業高校3年時に全国高校サッカー選手権で4強進出の原動力となり、1994年にジェフユナイテッド市原へ入団。高卒ルーキーながら開幕スタメンを勝ち取り、デビューから4試合連続ゴールという鮮烈なインパクトを残した。日本代表としては1996年アトランタ五輪、1998年フランスW杯に出場し、日本人として初めてスペイン1部リーグに挑戦した点でも知られる。
現役引退後は2009年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。北海道リーグの北海道十勝スカイアース(当時・十勝FC)では統括GMを務めたほか、解説業やサッカースクールのアドバイザー、YouTubeなど多方面で活動してきた。一方で、Jクラブや社会人クラブを問わず、コーチや監督として現場で指導に当たった経験はない。
城氏自身はインタビューなどで「いずれは監督をやりたい」と語ってきたが、指導者としてのキャリア形成は進まなかった。欧州でのプレー経験や日本代表としての実績は魅力的な要素であるものの、トップチームでのコーチ経験がないことは、クラブ側から見れば大きなリスク要因となる。結果として、監督候補として名前が挙がる機会は限られてきた。
50歳となった現在も、育成・普及活動やメディアを通じた発信が活動の中心となっている。福田正博氏や吉田光範氏と同様、現役引退後の早い段階で「現場以外」の道を選択したことが、プロ監督への道を遠ざけた最大の要因と言えるだろう。

前園真聖氏(2011年取得/52歳)
1996年アトランタ五輪でブラジル代表を破った「マイアミの奇跡」。その中心選手の1人として名を刻んだのが前園真聖氏だ。卓越したボールコントロールと創造性あふれるプレーで一時代を築き、日本代表FWとして高い人気を誇った。
2005年に現役を引退後、2011年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。しかし、引退後はJクラブのコーチや監督に就くことはなく、本人もインタビューやYouTubeなどで「監督をやりたいとは思っていない」「現場復帰はない」と、指導者転身を明確に否定している。ライセンス取得後も、その姿勢は一貫している。
前園氏がプロ指導者の道を選ばなかった理由は、本人の意思がはっきりしている点にある。現役時代、天才肌と評された自身の性格と、組織を率い、結果を求められ続ける監督業の重圧が合致しないことを、冷静に理解していた可能性が高い。2009年にはビーチサッカー日本代表として現役復帰し、FIFAビーチサッカーW杯UAE大会に出場するなど、異色のキャリアを歩んできたことも特徴だ。
現在は、2006年に立ち上げた「ZONOサッカースクール」を中心に、育成と普及活動に注力。NHK BSのサッカー番組でMCを務めるなど、サッカー界との関わりは保ちつつも、指導の最前線とは距離を置いている。ライセンスを取得しながらも、あえて監督にならない選択をした点で、前園氏はこの6人の中でも最も異なる立ち位置にいる存在と言えるだろう。

堀池巧氏(2012年取得/60歳)
日本代表の右サイドバックとして長く活躍し、ハンス・オフト監督の下で不動の存在だった堀池巧氏。静岡県立清水東高校時代は長谷川健太氏、大榎克己氏とともに「清水東三羽ガラス」と称され、Jリーグ開幕に合わせて設立された清水エスパルスでも中心選手としてクラブの礎を築いた。
引退後は指導者の道に進み、2012年にS級コーチライセンス(現JFA Proライセンス)を取得。2015年からは母校の順天堂大学サッカー部監督を務め、大学スポーツの現場で指導に当たった。しかし、Jクラブのトップチームで監督・コーチとして指揮を執る機会は得られなかった。
堀池氏がプロクラブから遠ざかった最大の要因として指摘されるのが、順天堂大学監督時代に報じられたパワハラ行為や、試合における意図的な敗戦指示があったとされる疑惑だ。大学側が調査を行った結果、監督職を解かれた経緯があり、この一連の問題は現代のサッカー界において極めて重く受け止められる事案だった。
その後も順天堂大学スポーツ健康科学部准教授として籍を置いてはいるものの、サッカー部の指導現場からは距離を置いたままとなっている。過去には清水の監督候補として名前が挙がったこともあったが、一連の報道を受け、プロクラブからのオファーの可能性は事実上閉ざされたと見るのが現実的だろう。
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